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短歌の蛇口 第3回

【今回取り上げた歌】
○ 中卒の母が一〇〇人産めば7人が当たり さびしい ごめん たのしい/斉藤斎藤「群れをあきらめないで(3)」『短歌研究』2021年7月号
○ 花冷えのミネストローネ いきること、ゆたかに生きること、どうですか/笹川諒「開放弦」『水の聖歌隊』
○ それは私が夜中に見てゐたドラマだと娘が言いぬ夢を語れば/花山多佳子「冷めたるココア」『鳥影』
○ きみはマリオわたしはルイージ走らせて花を食わせて火を投げさせて/柴田葵「ぺらぺらなおでん」『母の愛、僕のラブ』
○ 公団団地抜けて原っぱ蜂にキスここははじめっからの原っぱ/花山周子「原っぱ」『林立』


だ。」また、二〇一五年の調査では、算数の国内偏差値60以上(上位16%)の小学4年生は、両親がともに大卒の層では一〇〇中26人いるが、両親がともに非大卒の層では一〇〇人中7人しかいない。

中卒の母が一〇〇人産めば7人が当たり さびしい ごめん たのしい/斉藤斎藤「群れをあきらめないで(3)」『短歌研究』2021年7月号

牛尾:最近読んだ本類から新しい順に時系列で五つ選びました。まずは短歌研究7月号、斉藤斎藤の「群れをあきらめないで(3)」です。これは『人の道、死ぬと町』以降のいつも通りの斉藤斎藤の連作で、連載の最初の回の1月号でも、今回でも岡井隆の話をしているんですけど、それだけじゃなくていろんな話題が積み重ねられています。今回何の話が出てくるのかというと、この歌が述べているような親の学歴、生育環境と子の成績みたいな。
田島:それが詞書なんですね。
牛尾:はい。まあこの歌の前でページ切り替わってるんで、典型的な意味での詞書かというとちょっと違うかもなんですが。
この連作は、そういう親から子へ引き継がれる格差みたいなことについての一般論でもありつつ、半分は「私」の人生の話として、家族の学歴が自分の人生にどう影響したか、あんまり大学進学しそうにない家庭から大学進学した「私」の話でもあり、ここからさらに面白いのが、確率論の話をもってくるところなんですよね。
田島:7月号、あ〜〜「岡井は真面目系クズ/清楚系ビッチ」の話ですね。あるかな……。
牛尾:そう。で、確率論の話――壺の中に球が100個入っていて色付きの球を取り出す確率ーーみたいなところから、100人岡井隆がいたら歌会始の選者になったのは何人で、みたいなことを言い出して計算を始める。
確率論、しかもベイズ推定の話っていうのは、いわゆる生の一回性に対するアンチみたいなところがあると私は思っていて、ベイズ推定とか言われた時点ですでに笑ってしまうところがあります。
散文詩の面白さなのかな。いろんなモチーフを象徴的繋がりがあるレベルで繋げていって全体を構成していて、なんか、一首一首っていうか、象徴的に構成されたもの全体を楽しんでいる節はあるのかなって思います。でもまあ、岡井隆という話題も短歌の読者を当て込んでるし、そもそも使っている道具が短歌なので、短歌であることは間違いないと思うんですけど。
この歌単体で言えば「中卒の母が一〇〇人産めば7人が当たり」っていう、ものすごく人間性を削いだ言い方で。連作の最初の方に「母は中卒だった」っていう昔語りっぽい詞書も現れるので、この「中卒の母が」は、一般的に中卒の母親であればっていうよりは、「私」の中卒の母がっていうところがあるんだと思います。この「一〇〇人産めば7人が当たり」という非人間的なフレーズにおいて、産む母は一人っぽいっていうのが……。「さびしい ごめん たのしい」っていうのも、7人の側に入ってしまった、家庭環境と自分が進学した先の環境のずれのような居心地の悪さでもあるし、これをおもしろがって話題にしている「たのしい」でもあるのかなっていう風に読んでいます。
田島:そうですね……。この連作のことをいま思い出したので、最初は牛尾さんが出してきたこの歌だけで読んでいたんですけど、まずはこれはすごく非人間的というか、暴力的な言い方をしているなと思いました。
「中卒の母が一〇〇人産めば7人が当たり」、まず「中卒の母」の暴力性。基本的に人は百人も産めないので、なにかの比喩なんだろうと思うけれども、「中卒の」からは、経済的に困難な立場にある人が多産であるということにも思い当たり、その子どもに当たり外れ判定をすることの残酷さもある。それに対して、真面目になりきらずに、「さびしい ごめん たのしい」という感じが出てくることの怖さですよね。
斉藤斎藤の短歌における仕事をある程度知っているので、なにかの根拠がありなにかの事実に対してなにかを言おうとしているんだろうなと感じるんだけど、一首で抜き出してみるとめちゃくちゃ怖い。という風に思いました。
私は連作で見たときはこの歌のことはかなり流していて、後半の岡井隆をたくさん生み出すゾーンと岡井隆の『現代短歌入門』のパロディしてるところに笑ってたんですけど……。
牛尾:岡井隆をたくさん生み出すにあたって、ベイズ推定が出てくるのが面白くて。ベイズ推定っていうのは、なんていうか、このような結果があるからこのような確率でしたというのを何回も計算するみたいな話だと私は思っていて。なんか最近流行ってる……流行ってるって言ったらおかしいな、最近かなり活発に使われるようになっていて、そういう現代性も感じられておもしろかった。
田島:使われてるっていうのはどういう分野で?
牛尾:ビッグデータの解析とかそんなんだった気がします。
田島:ふ〜〜ん。えっと、歌に戻ると、この一首を取り出すと暴力的で怖いという話だったんですけど……。
橋爪:怖いですよね。なんか、怖いだけじゃなく違和感みたいなのがやっぱあって、「一〇〇人」の百は漢数字なのに「7人」は算用数字になってて、ちょっとした違和感というか読んでて気持ち悪〜 みたいなのがあって、とか。「さびしい ごめん」のところは東直子さんの〈怒りつつ洗うお茶わんことごとく割れてさびしい ごめんさびしい〉の歌あるじゃないですか。あれを若干思い出すんですけど、全然質感が違って、たぶん「たのしい」に「ごめん」がかかってるように読めるからなんじゃないかなと思うんですけど。そこらへんちょっと難しいなと思う。
田島:この「さびしい ごめん たのしい」のところは、結構つぶやいて言う感じかなと思ったんです。「さびしいけど、ごめん、やっぱりたのしい」みたいな。あんまり離れている感じじゃない。一字空けによって何かすごく断絶があるという感じではなくて、話す言葉のテンポのような感じで読みました。
橋爪:暴力が「さびしさ」と「たのしさ」両方を持ち合わせているってことなのかなあっていう風にも思ったんですけど。「当たり」ってやっぱ怖いですよね、なんか。
牛尾:東さんの歌、気がつかなかったけど言われてみたらそういうのも念頭にありそうですね。
この言い方、偏差値の話をしていて「当たり」っていうから本当に非人間性が強調されている感じがしますよね。でも後でくじ引きの話とかも出してくるので本当に「当たり」なんですよね。くじ引きっていうかボール引きか。確率の計算問題で言われる「当たり」みたいなやつ。
田島:一つ前の歌が、記号の読み方がわからないけど、〈当たる確率80%/27%の宝くじを渡されていたようなもの〉で、その前の詞書が「1966〜75年生まれの男性の場合、父が大卒だと80%、非大卒だと27%が大卒である。これを「敢えて極端に喩えるのであれば、生まれた時点で」で切れて、「当たる確率80%/27%」の歌が始まる。引用なのかな。
牛尾:スラッシュの読み方はわからないけど、当たる確率が80%の宝くじ、または27%の宝くじって感じですよね。
田島:そうですね。これは注があって、短歌自体が『教育格差』を一部改変したものということで、偶然短歌bot的な抜き出しですね。この「当たる確率」の歌があって、「中卒の母」の歌があるので、宝くじの当たり外れのようにして人間を見る非人間性ですかね。「当たり」というのは大卒と非大卒であるみたいな。
牛尾:この場合は算数の偏差値ですけど、やっぱり大卒と非大卒であるとか、もうちょっと大きく学歴社会、教育格差かな、そういう議論の話でもありますよね。
田島:教育の内容どころか大卒か大卒じゃないかによってある程度社会階層が固定化されることを……なんでしょうね。当然、こちらとしては批判的であってほしいと思うわけですよ。そういった社会に対して批判的であってほしいと思うんですけど、歌はその批判よりちょっと前の、まずは事実を提示するところに立っているんだと思うんですよね。
牛尾:ああ〜〜。
田島:態度を明らかにしてほしいみたいな思いもある。読んでいてちょっと怖いから、この人は本当はこういう社会にどう思っているのか、求めてしまう。求められるなかで、ひとまずこういった事実の引用をしますよということをやっていると思うんですけど。態度を見たいという欲望に対してあらがう作り方をしている。
牛尾:でもそんなに態度見たいかなあ。なんだろう、いわゆる正当な意見を表明するのはもうしんどいみたいな気持ちはとてもあって、そういうことの先にアイロニーがあると感じている。
この連作は、前半の「Ⅶ」ではそういう教育格差の話を持ってきて、「ⅦーB」で言い方を変えてもう一回話しているうちに、〈【問題】鏡の前に岡井が1人立っており、一〇〇人の隆が入っている。〉とかの、確率論によるアンチ生の一回性じみた、岡井隆を茶化していく話になっていく。だから、この連作ぜんぶで教育格差の話をしてるんじゃなくて、一つ長い連作の中にいくつかのテーマがスッスッスッと重なっている、そのうちの一つなんだと思っていて。『人の道、死ぬと町』だったら多分この「Ⅶ」がやってることだけで一つの連作にしてるケースもあったと思うんですが。
田島:斉藤斎藤の仕事についてはたくさん話すことがあると思いますが、私の興味のある方向性だと、社会で起きているいろんな問題への批判や話題の持ち出しを、アイロニーや引用といった形で行う手法への興味というのがあるんですね。
でもこの歌の話をしようとしたら、私は社会へのこの作者の態度を求める求めないとか、内容に対する思想的な話になってしまった。現代美術の作品について議論を起こすことに成功しているっていう評価があるように、そういった形での評価ができると思っているんだけど、場合によってはこれは悪趣味なんじゃないかと言うひともいると思う。
牛尾:議論を起こすことに成功している、みたいなのは分からなくもないのですが、良くない作品に対しても言いうる評言なので、あんまり好きなフレーズじゃないですね。
田島:それはそうですね。雑にも言えてしまう。
牛尾:私もこういう探求に興味がある方なんですけど、あんまり作者の意見とかいうところに話の焦点を置くつもりがなく。このタイプのやつでもすごく好きなやつと、つまらんわって思うやつとがあるんですよね。
なんかそれをすごく評とか以前の感覚的なレベルで言うと、とても考えて作られてそうな感じがするかそんな感じがしないかみたいな話になってしまうのですが、うーん、いや……雑だなあ。とにかく社会的なテーマが描かれていればなんでも嬉しいというわけではない。関心はあるけど。という気持ちですね。
橋爪:私は何だろうな、正直半分以上の歌がよくわかんなくって、それは私がたぶん岡井隆を読んだことがあまりないからとか、ベイズ統計学とかそういう言葉とかも全然よくわかんなくて難しいからなのかなーって思ってたんですけど。
私が個人的に興味がある分野っていうのは、なんか、暴力を伴って存在している社会において、我々個人が暴力という姿勢で立ち向かっていくという決意を取った時にどういう力が生まれるのかということ自体には興味があって。
逆に言うとそれ以外には私はあまりに興味が持てないので、全然いい読者じゃないんだろうなって思いながらずっと見てました。
牛尾:うーん、でもこの連作に対するいい読者っていうのもよく分かんなくないですか? なんか癖あるし、読む人を選ぶ感は多少あるかなと思いますし。いわゆる正統派の短歌じゃないじゃないですか。好きですけどね。
橋爪:なんだろう、この世が暴力というものを伴って存在してくるんだったら、こっちも暴力でやり返してやるという感じがするんですよね。全然違ってもすごく劇的なのかもしれないんだけど、ちょっとある部分、おちょくってるとことかあるじゃないですか。 おちょくることも暴力かなって私は思っていて。
この世が戦争ならじゃあ私も武器持って戦うぞ、でも何に? みたいな感じ。「何に?」っていうのを暗闇に投げかけられて、ずっとハウリングしてるようなイメージがあります。
暴力は怒りと切っても切り離せない行為だと私は思っていて、怒りがぐるっと反転したらおちょくりみたいなムーブになる時ってあるじゃないですか。そういうことなのかなとも思いつつ、いや難しいなって思います。
田島:う〜ん、「何に?」っていうのはわかります。新聞の風刺画とかありますよね。風刺画は風刺するものが権力者だったり、馬鹿なことをした人だったりとか、あとは一般大衆のこういう風潮あるよねという、分かりやすさがあると思うんです。
でもこの連作は何を風刺しているんだろう。それがすごく明確になりすぎると、歌としてもおもしろみがないんですけど、なにかの空気感を風刺している感じはする。おもしろみっていうのもなんなんでしょうね。
橋爪:身も蓋もないような世の中、暴力的な世の中ってさっき言いましたけど、その身も蓋もないまま受け止めて、たとえば「当たり」とか言ってみたり「一〇〇人産めば」って言ってみたりするような、身も蓋もなさに、自分の言動みたいなものが、社会の合わせ鏡みたいに映っているような感じがして、おめーらがこうするなら俺はこうするぞみたいな感じの、鏡のような気持ちに、段々鏡を見ているような気持ちに、段々なってくる、歌かなという感じがしていて、生まれによって児童は異なる普通を生きる、という身も蓋もなさに、どうやって対応するかっていうのは、なんか真面目に怒る以外の、新しいやり方を探し続ける、手段なのかなみたいな。探し続けている様子なのかなという感じはしていて。
牛尾:めっちゃ分かります。
橋爪:すごく言葉を選ばないといけない、読んだ人が評に言葉を選ばなきゃいけない連作だなと思う。で、私はそれはなんでかって言うと、例えば学歴の問題がすごくデリケートな話だから、ってことではなくって、身も蓋もなさに対して、ちょっと道化みたいなのを演じていると言うか、演出しているところがあるから、そこを鵜呑みにしちゃいけないんだよな、っていう気持ちで、一歩引いて、身構えて読まないといけないからかな、って私は思っていて。道化みたいなものの演出が、その暴力にズタズタにされた体の中から発せられている、かもしれないという可能性について、読者が考え続けなければならない、ということを求めている、求めているのかわからないんですけど、それが必要とされている、ような気がする、から私の喋りがこんなにゆっくりになってるんだと思うんですよね。文字起こしでゆっくりのスピードが伝わらないのがもどかしい。
田島:読点をいっぱいいれなくちゃ。
橋爪:ね。でもなんか本質的なところのもやもやみたいなのは、詞書の 「話が合う子とは気が合わなかったし、気が合う子とは話が合わなかった。」みたいなどちらの属性にも何か当てはまらないような気がする自分、みたいな像だと思うんですよね。
田島:「ⅦーB」で言い方を変えて「実は」ということを言い始めますもんね。
橋爪:23ページの最後の「物心ついたら賢かったぼくは、じぶんの賢さがずっと居心地わるかった」から「物心つく前のわたしを、わたしは想像するしかできない」までのなんか心を揺さぶられる感じの文章から、確かにいきなり斜め上の方向にブッ飛んでるように見えるんだけど、でも多分地続きなんだろうなっていう話をしているのが、面白いんですかね。私にはちょっと分かんなかったです。
牛尾:なんていうんでしょうか、ちょっと違うところからの話になるんですが、わたし、現代の作家の展覧会とか行ったときに美術館で映されてる映像が好きで、ああいうものをなんて呼べばいいのかわからないのですが、物語でもなくインタビューとかドキュメンタリーとかでもなく、でも主題とか問題意識みたいなものはあって、なんかよくわからない感じで進んでいくやつ。そういうやつと近い感じでこの連作を好んでいるのかなって思います。よくわからない構造物みたいなものが割と好きなのかもしれない。
つまりこの連作全体の話題展開って別に、散文や論理的に筋を通した議論でもなく、「私」の物語でもなく、なんだろう、各要素が概念上は繋がっていると言えば繋がっているみたいな関係で構成されていて。それって、とてもでかい、連作一つ単位での詩っていう感じなのかな。
田島:現代詩的に見えるけど、例えば現代詩としてこの連作が出されたとしたらうまく読めないという感じはします。わたしたちは詞書と呼んでいますが、現代詩の文脈で見たらこの小さい文字――詞書っぽくないんですよね、間にあるから、詞書っぽくはなくて――小さな文字の文章の間に大きな文字の文章がある、ということになると思うんです。でも、そういう風に見たら、つながり方がわからない感じもする。
短歌の文脈で読んでいるので、詞書の仲間としてこの小さな文字を読んで、大きな文字のほうを短歌なんだな、とわたしたちは勝手に思う。大きな文字を短歌として読んで、韻律をなんとなくでも感じ取ろうとして、昔の短歌のパロディだなとわかる。短歌の場でいちばんパワーアップするので、短歌として読みたい、みたいな。
牛尾:ものすごく短歌の道具は使ってるんですよね。これ面白いのが【例題】とか【問題】とかAとBの問答とかの上部分って、ト書きであって、短歌の文字の中には入ってない。
田島:答えとかあるしね。
牛尾:うん。〈【例題】目の前に大きな壺が1つあり、一〇〇個の球が入っている。〉とかどう考えても問題文なんですよね。ま、続きの小さな字の文章も含めて1セットの問題文って感じですけど。このト書き部分は太い文字で書いてあるのに、短歌の音からは落としてるの、ちょっとウケるなって思いましたね。
橋爪:でもやっぱ、「物心ついたら賢かったぼく」って言ってて、ウワー賢いアピールとかじゃないけど、問題がいっぱいでてきて賢そうだぞこの人! 勉強できるって言ってるけど確かにその通りだなードヒャー! みたいなものがバーッと続いたら、ちょっとウケますよね。
田島・牛尾:(笑)
牛尾:「物心ついたら賢かったぼく」というのは何か苦みもありますよね。そっか、このあとの展開は「賢さ」なんですね。
橋爪:なんだろう、この人はこの展開で「賢さ」を演出しているような感じがしてるけど、道化みたいな感じもあって、この人真剣にやってるけど、なんか脱臼してない?みたいな雰囲気があるというか。ちょっと不思議な、ひとを置いてけぼりにさせてる感があるというか。
田島:最後、「非公表の文章のため、引用許可取得済」ってなってるの、律儀だ。
牛尾:わたし「群れをあきらめないで(2)」は読んでないので、全体としてどうなるかが気になります。
橋爪:……「(連載おわり)(連作はつづく)」ってすさまじいですね。
牛尾:「群れをあきらめないで(1)」は1月号で、これもなんか、ほんとに岡井隆と前衛短歌の話をしているが、天皇制の話にもなっている……。
田島:この最後の、このコントみたいなの、何? 急にギャグマンガみたいになってる。
牛尾:「(連作はつづく)」、詞書の登場人物A・Bを増やしてCも作ってどうするんでしょうね? ここで終わりだったら話もオチる感じになるのに、連作続くんだよね?


それは私が夜中に見てゐたドラマだと娘が言いぬ夢を語れば/花山多佳子「冷めたるココア」『鳥影』

牛尾:これはそのまま、夢の話をしていたら最後にツッコミとして「いやあなたが夢に見たと主張しているものはわたしが夜中に見てたドラマだ」っていうオチが付くという歌です。構造としては結句の「夢を語れば」で全部が分かってそこがオチみたいになってるのかな。初句7音も「それは私が夜中に見てゐた~」っていうのがガーッと入ってくる感じになっていて。これは日常の、こんなこともあるかもしれない、みたいなシーンですけど面白くて好きでした。
橋爪:なんかこれ、「私」=「娘」なのか、「私」=「親」なのか、よくわからないですよね?
田島:あー、でもわかんないですね。「娘」が「見てゐた」と思っていましたが。
牛尾:え、そうですか? 他の解釈だとどういうふうな構文になっているんですか?
橋爪:「それは(母である)私が夜中に見てゐたドラマだと娘が言いぬ」みたいな感じですかね。
牛尾:ええと、娘は何て言ったんですか、その場合。
田島:「それお母さんが見てたドラマだけど!」って感じですよね。
橋爪:そうそう。
牛尾:なるほど!!! あっ、そっか、そういうことか。
田島:えーどっちもいける?
牛尾:どっちもウケるな。
田島:わたしは「娘」の見ていたドラマだと思っていたので、たとえば母が寝ながらドラマの音を聴いていて、夢にちょっと影響があったのかもしれないけれども、そういう実際的な理由とともに、娘が見ているものを、なぜか母も見ている、同じその場にいる人のへんな連関みたいなものがおもしろいのかなと思いました。
橋爪:そっちのほうが、面白さは大きいですね。見たドラマがそのまま夢に出てきた、よりも、娘が見てたほうが、こう、斜めに線が引かれる感じがして。
牛尾:……なんだろう、好きだから持ってきたんですけど、めちゃくちゃ話すことがある歌というわけでもないですかね。
田島:(笑) でもいい歌だと思いますよ。
橋爪:まあまあまあ……そういうのもあるでしょう。
牛尾:じゃあもう一つ、『鳥影』を読んでて考えたことを話してもいいですか? この歌集は、娘が娘を生んで育ててるのを一緒に育ててるみたいな感じの生活の話をしている歌集で。第一回で橋爪さんがちらっと子供の歌みたいなのをされてましたが、子供の歌・孫の歌ジャンルみたいなのってあるじゃないですか。特に女が子供の歌を詠むみたいなことについて、なにか文脈がある、世間から特定の種類のものとして扱われているところがあるんじゃないか、ということが気になっていて。橋爪さんの話をもっとよく掘り下げたかったなという気持ちが後になって湧いてきたんです。
子供と生活している人だと、歌に子供が出てくるということはそりゃあるだろうと思うのですが、子供をうたった歌に対して何か特有の文脈が用意されているような気がするんですよね。あれは何なんでしょう、ということを……。
橋爪:特殊な文脈が付与されているかどうかについてはよくわからないんですけど、「こどもかわいい」だけの歌、「孫かわいい」だけの歌だったら、だめだよね~みたいな話は、ときどきされるじゃないですか。
牛尾:なんか聞いたことありますよね、そういう一般論。でもつまらない歌は何を詠んでもつまらないでしょ、と思うので、それって子供・孫の歌特有の問題なのか? ということが気になっています。
橋爪:なるほど。それはそうですね。まあ、新聞の投稿欄とかで、そういう歌がたくさんあるとか、もしかしたらあるのかもしれないですけど。
田島:あー。まあ、子供がかわいい、というだけで歌全部が占められていて、歌が自分の感情だけに没入……してる歌は面白いわ。
橋爪・牛尾:(笑)
田島:いや、難しいですよね、面白くない歌というのがあるというのはわかるんですけど、そんなに面白くない歌を冷静には見ないので、わからない(笑)
橋爪:まあ、でも感情がひとつで完結してて「あ、はい、そうですか」みたいな感じの歌がつまらなくなることはありうるのかなとは思いますけどね。
田島:そうですね、それだけで完結してるというのは。でも、子供の歌のときに特にそうなりがちというのは、親は子供への感情みたいなのが念頭にあるから、そう言われがちなのかなあ、とか?……あんまりわからんなあ。
牛尾:そう、そこなんですよね。うまい人が作ったら何でも面白いんだったら、これは子供の歌の問題ではなく、一般的な社会の通念こそが、子供を持っている親についてなんらかの観念を持っているからなのではないか、ということが気になってるんですが、でも分かんない、調査不足なので。
橋爪:まあ、確かに面白くない歌は、何詠んでもおもしろくないですもんね。身もふたもないけど。
牛尾:新聞の投稿欄のことは、チェックしたこともないのでなんとも言えないのですが、みんな同じ話をしてるの聞くのもうイヤ、みたいなのがあるのかな。それは社会詠でも同じふしがあると思っているんですけど。ツイッターでみんなが同じ話をしているみたいなのも似たようなイヤさがある。
橋爪:それはあると思いますね。「たったひとつのかけがえのないひとつの感情なはずなのに、それが全部同じように見えてしまうのはなぜなんだろう」みたいな内容のことを穂村弘も書いてましたよ確か。
牛尾:さすが穂村弘、それですそれ。
田島:短歌にしようとしたときに、しようとしたものがとても安易になってしまうというのは、ありますよね。嫌な話ですけど、子供の歌を作る女のエゴや「母性的なるもの」が期待されたりされなかったりするという状況があると思います。歌の中でいわゆる「母性的なもの」が読まれているにせよ、逆に歌の中で「いやそんなものない」と言うにせよ、それらが前提にされてしまいがちな状況はある。その状況との綱引きというのがどうしても生まれてしまいがちなのかなとは思う。
牛尾:確かに前提があると、前提通りか前提に抗ってるか、みたいな、そういう評価軸になっちゃうところはあるのかな。
田島:男親よりも女親のほうが、子どもに対する様々な感情を期待されがちな状況があるのかなと思います。
牛尾:ていうか実際問題、この社会で確率が高いのは女が子どもに対してより大きく時間を投入している状況なので、生活にあるものを取ってきて短歌にしていたら、そういう題材の歌が蓄積する可能性は高いですよね。
『鳥影』は、〈咳すれば膝に居る子も咳をする咳なのか真似なのか判然とせず〉とか、〈声あげてころがるからだつくづくと羨みて見るわれも娘も〉とか、小さな子どもがいる人の生活ってこんな感じなんだって思ったかな。日常の歌がすっすっすっとあって、それが子どものいる日常だった。


花冷えのミネストローネ いきること、ゆたかに生きること、どうですか/笹川諒「開放弦」『水の聖歌隊』

牛尾:この歌については、解釈を固定して読めてるわけじゃないんですけど、「いきること、ゆたかに生きること どうですか」と強い言葉が使われている割にかなり下の句を無視して読めちゃうところがあって、それが面白いなと思っています。なのでこの歌は、とても遠くにミネストローネがあるぐらいの感慨しか私にもたらしてないんですけど、そういう遠さが好きだなと思ってます。
橋爪:わたしはなんか、ミネストローネという食べ物は豊かだよな。豊かか豊かじゃないかのどっちかでいうと、みたいな気持ちになっちゃったんですけど、悪い読みだなって自分でも思いますが。
田島:ミネストローネは豊かですよ。花冷えだからなあ、しかも。
牛尾:わたしの読みもだいぶ粗めですよ、すごくピンぼけで見ていてきれいでしたみたいなことを言っているわけなので。
田島:下の句の意味をあんまり取らなかったという話がちょっとよくわからないんですけど。
牛尾:なんていうか、その、特に何言ってるか分からないし、別に何言ってるか分からなくていいだろうなという確信があった。
田島:ゆたかに生きることどうですか、という問いをそんなに重たく取らなくてもこの歌はいいかな、の感じですか。
牛尾:そうですね。
橋爪:わたしはつぶやき実景の拡張版という感じがしました。
田島:確かに。
牛尾:うーん、ミネストローネと生きることに関連する意味を考えようとしたらそう取らざるを得なくなるのも分かるけど。
田島:つぶやき実景って言われたらそんなような感じがしますね。別に上下に繋がりがあるわけでもなく、あってもいいが、と。「いきること」と「(ゆたかに)生きること」で、最初ひらがなで次漢字というのに微妙に意味があるっぽいのが逆に気になっちゃう。
牛尾:でも漢字ひらがなバランスを言えば、この書き方をするのが一番よくないですか?
橋爪:わたしも一番いいと思いました。一番いい方法を選んだからこうなったんじゃないかなと。
牛尾:漢字とひらがなに対して意味を付与するんじゃなくって、文字列でどこが漢字になっててどこがひらがなになってると嬉しいのかが優先されてるのかな。
橋爪:うんうん。まったく同じ気持ちです。
田島:そっかあ。じゃあいっかあ。
橋爪:あと、「生きること、どうですか」の読点でテンポ一旦置くじゃないですか。この「どうですか」で、読者をギロって睨んでこないところが技だなって思います。
田島:うんうん。
橋爪:この「どうですか」っていうのはあくまで自分に問いかけてるんだということが、この「生きること、どうですか」の読みのテンポによって補完されているというか。
牛尾:聞かれてる感じ全然しないですよね。
橋爪:「どうなんだろう」の形違い、お尻だけが変わったものみたいな気持ちになったというか。
牛尾:うんうん。あとこの「花冷え」は謎っちゃ謎なんですよね。きれいな言葉くっつけただけでしょと言いたくなる気持ちもある。
橋爪:もちろん。それはあるし、割と笹川さんの歌全体にその批判はあってしかるべきものだとわたしは思いますけどね。
牛尾:ああ、分かります。ただ、笹川さんの歌は、あんまりこっちに来ないで向こうで浅瀬をちゃぷちゃぷしてるな、みたいな感じが心地いいんですよね。
橋爪:グワっとこっちの魂を揺さぶることが目的じゃないんですよね。「どうですか」ってのが、でかめの幅を取った詠嘆みたいにみえるのが面白いなとわたしは思っていて。
牛尾:ああ~。
橋爪:いきることだなあ、ゆたかに生きることだなあ、ぐらいのテンションでこの「どうですか」が読めてしまう。「どうですか」ってびっくりするぐらい強い言葉だと思うんですけど。短歌の中で使うと特に。けど、ここではさらっといい意味で流せちゃう面白い「どうですか」だなあと思いました。
田島:確かに。話を聞いていてだんだんピントがあってきた感じがします。生きて負うあわれみみたいなことを最後の七音だけで言っていきなり詠嘆に行くというの、昔の歌にあるじゃないですか。そういう「あわれ」みたいなことをうすーく透明な感じにしていると思うと、分かってきた。この前、永井祐さんが「日々のクオリア」で引用していた〈七階に空ゆく雁のこゑきこえこころしづまる吾が生あはれ/宮柊二『日本挽歌』〉とかの、最後にいきなり「吾が生あはれ」が出てくるみたいな。
橋爪:でも「その吾が生あはれ」はだいぶ重みがあるような気がしますけど。
田島:ちょっと違うけど、あるやんこういう、最後にあわれになっちゃうやつ。一番最近「あわれ」を見たのがこれだったんです。
橋爪 言わんとすることは分かりますが。話変わりますけど、ミネストローネって場合によってはウケません? ちょっと外してきてるというか、差し色入れましたねみたいな気持ちになるというか。なりません?分かんないけど。わたしだけかな。
牛尾:わたしはミネストローネ、冬の食べ物だと思ってるから、「花冷え」なんだ~という気持ちにちょっとなりました。
田島:豊かな食べ物は他にもありそうですね。温かいスープとかじゃないのがいいのかもね。


きみはマリオわたしはルイージ走らせて花を食わせて火を投げさせて/柴田葵「ぺらぺらなおでん」『母の愛、僕のラブ』

牛尾:これは皆さんご存じ、ご存じなのかなあ、よく分からないけど、わたしはよく知っているつもりのスーパーマリオブラザーズの話ですね。この歌は連作「ぺらぺらなおでん」からなんですけど。マリオの明るくてチープなBGMに、ファイアフラワーを取ってファイアボールが出せるようになってっていう効果音はもっとチープな感じなのに、このマリオとルイージがたいへん抒情的になっちゃってるのがすごく面白くて。
橋爪:確かに。そうですよね、「火を投げさせて」とかめっちゃ抒情ですもんね。
牛尾:すごく面白いなって思いつつも、面白がってる場合なのかな、短歌って怖いって言った方がいいのかもしれないですけど。
橋爪:ああー、それは場合による。
牛尾:これがスーパーマリオのあのチープな音楽の中で起きてることだって分かるのに、なぜか非常に抒情的になってるのこれ何なんですかね、と。
橋爪:まあ花を食べるとか、火を使って何かをする、とかの行為が、この歌以前の詩とか文学とかのいろいろを請け負ってるからって感じがしますね。どうなんだろ、違うのかなあ、全然違うのかもしれない。
牛尾:歴史なのかなあとは思いますが、それだけで抒情的な気分になっちゃってたら世話ないわっていうか。すごく抒情~ ってなったし気持ちは上がっちゃったんですけど、歴史的蓄積のあるフレースを持ち出されただけで気持ちが上がってきちゃうってどうなってんだよ、ってことを言ってくる私がいますね。
橋爪:でも造りは丁寧だと思いますよ。「わたし」のほうが弟のルイージであることとか、「走らせて」「食わせて」「投げさせて」で「て」を使って、リズムを取ってるんじゃなくて真綿で首を絞める感じの抒情と、タッタラッタラッタって音楽でぴょんぴょん飛び跳ねてるようなマリオの両方の演出ができてるわけじゃないですか、そこらへんの演出の良さだと思いますよ。
牛尾:あと動詞が使役なのもいいんですかね。~させて、~させて、~させて、の支配の構造みたいな。
田島:なんで抒情なんだろうということを考えましたけど、やっぱり花と火というアイテムに。
牛尾:まあ、花と火とか言っといたらええやろみたいなのが。
田島:ある。
橋爪:ないわけではない。
田島:ないわけではない。ある。あとマリオだと、俵万智さんの「オレがマリオ」も有名ですが、全く違う感じでいいですよね。
橋爪:俵さんの歌は、〈「オレが今マリオなんだよ」島に来て子はゲーム機に触れなくなりぬ〉かな。ゲームの外のところに抒情を見出してるんですけど、これはゲームの写し絵、ゲームを下敷きにそのまま抒情の絵を書いちゃったよ、みたいな気持ちになった。でもちょっとこの抒情に乗れるか乗れないかって問題はあると思います。わたしはそう言われるまではあまり乗れなくって。ああゲームの歌だなってわりと思ったので。「花を食わせて」って言いたいだろうなあの花を見たら、と思うし、「火を投げさせて」って言いたいだろうなと思ったみたいな感じで、ちょっとなんか考え込んでしまったみたいなところはありますけど。
牛尾:なるほど。まあでも「ぺらぺらなおでん」からこの歌引いてくるのはあんまりいい選歌じゃないなとは思いますね。この話を今したくなったので引いてきたんですけど、「ぺらぺらなおでん」の話をするならこの歌ではないっていう感じ。
橋爪:それはまあでも。
田島:この歌の話をしたくなったということなので。
橋爪:この歌の話をしたくなったので、でいいいと思いますけど。
牛尾:それがわたし「母の愛、僕のラブ」の話もちょっとしたくて。
橋爪:うんうん。
牛尾:笹井賞のときには私あんまり「母の愛、僕のラブ」のこと分かんなくて、分かるようになってるかなって歌集引っぱり出して、「ぺらぺらなおでん」めっちゃいいじゃんって読み始めて。この歌集は「ぺらぺらなおでん」から始まって「母の愛、僕のラブ」で終わるんですけど、結局「母の愛、僕のラブ」あんま分かんないなってところで歌集を読み終わってしまって。
まあ将来分かるようになるかもしれないんでそれはいいんですけど、だから、みなさんは柴田さんの歌どういう風に読んでるんですかっていうのを聞きたいです。私は、なんていうか言い方があれですけど、まだ発見されてない作家の歌を見つけてやる、みたいなことが自分にできるとは到底思えなくて。むしろ人が言ってるのをたくさん聞いて、この人がそう言ってるんだったらそうなのかなという気持ちで何回も読んでなるほど、と思うことが多いので。読みあぐねたときは人の力を借りたいんですよね。
橋爪:私は「母の愛、僕のラブ」は、選考委員の言葉とかもあって、割とすんなり読めたほうかなという感じがしますね。「ぺらぺらなおでん」は、石井賞のときに出てた連作ですよね。次席の。
牛尾:石井賞のときはほしみゆえさんの歌がさいこーって思ったから他の記憶を忘れてしまったんだと思います。
橋爪:なるほど、都合のいい頭ですね(笑)
牛尾:雑なんですよね。
橋爪:でもそうなりますよね、分かりますよ。私は柴田さんの歌は、代表的でキャッチーめな歌、〈プリキュアになるならわたしはキュアおでん 熱いハートのキュアおでんだよ〉とか、〈バーミヤンの桃ぱっかんと割れる夜あなたを殴れば店員がくる〉とかが好きで。
牛尾:うんうん、わたしも好きです。ただ、「母の愛、僕のラブ」が連作として何をやってるかがあんまりピンときてなくて。
橋爪:確かに「母の愛、僕のラブ」は一首目からぱーんとやりたいことが分かる連作ではないと思って、一首目〈僕は先生を漂白する役でドアノブを回すとへんな音〉とかはあんま分かんなかったんですけど。ぜんぶ読んでみたらだんだんやりたいことが分かってきたかな、みたいなテンションで読んでました。けっこうスロースターターぽい感じでぐにゃーっていくのかな。難しいなって思います。ホームランぶっとばそうとするタイプの打者なのかなっていう感じがするんですけど。
牛尾:あーそうなのか。
橋爪:さっきの笹川さんとかだったら、安定する球を安定して打っていくみたいなタイプだと思うんですけど、柴田さんはけっこう、一首一首のハマり度の落差がすごいありますね。
田島:「母の愛、僕のラブ」そういえばあんま分かんなかったなってこと思い出しました。
牛尾:これまでは歌集が全体的に分かんなくていつか分かるかなって感じだったのが、いま「ぺらぺらなおでん」だけめっちゃ当たってしまって、それでテンション上がったまま読んでいったのに結局「母の愛、僕のラブ」で分からなくなってしまったのでわたしの中で何が起こっているのかしら、と思ってたんですがそういうことなんですかね。
橋爪:「母の愛、僕のラブ」は、母への愛憎、この世への愛憎で、それが「わたし」への愛憎に跳ね返っていく様がじくじく針をさすように描かれている連作かなとわたしは読んだけど、どうなんですかね。
牛尾:なるほどありがとうございます。このあたりはお話聞きたかっただけなので、載せますか? なんかわたしの疑問解消コーナーになってて申し訳なく、ためらわれるのですが。
橋爪:まあでも、同じ疑問を抱いている人がいたらおおってなると思うので。
牛尾:こういうのは、なんだろう、全然分かんなくても、何年か寝かせといたら分かるときが来るかもって思う。
橋爪:うんうんうん、それはどんな人でもどんな連作でもそういう、時間を置けば出会いがあるっていうのはあると思います。
牛尾:なんかたぶん、わたしは出会いが早い方じゃないんですよね。だからいろんな本には長いこと寝といてもらった方がいいかもしれない。
橋爪:そうなのかあ。
牛尾:そうですよ、それか、きょうたんでみなさんがこれはこうなんですよってする話を聞いてたら多少早まっていたかもしれませんが、今はそういうのもないのでほんとに寝といてもらうしかないですね。
橋爪:あ、最後に。柴田さんの歌って、いろんなパターンの歌が多いのかなと思って、読者それぞれがどれにヒットするかがけっこうだいぶ違うような気がするっていうのは思いました。例えば〈眠りこけるきみのくちびるひびわれてこれが舟ならまもなくしずむ〉とか、柴田さんの代表歌とはちょっと毛色の違う歌とかも入ってて、そこらへんが、いろんな面を向いてる光の反射材みたいな。どの面に光をあてるかが読者それぞれによって違うから、違うところが各々色々光るから難しいのかなって思いました。


公団団地抜けて原っぱ蜂にキスここははじめっからの原っぱ/花山周子「原っぱ」『林立』

牛尾:『林立』の中で「原っぱ」っていう一首連作になっています。
田島:「原っぱ」の一首連作。へー、いいですね。
牛尾:はああ……この歌なにが起きてるか理解してないんですけどさいこ~~ いや、真面目に話しますね、今のナシで。
田島:はい。
橋爪:(笑)
牛尾:書いてあることに従って読むと、公団団地を抜けたら原っぱがあって、そこに蜂がいて、蜂にキスをするっていうのと、その場所について「ここははじめっからの原っぱ」っていう説明がある、ということだと思うのですが。何でしょうね、何なんでしょうね、この「蜂にキス」っていうのがどうしようもなくかわいいし、「ここははじめっからの原っぱ」っていうのは団地ができるよりも前、もうずっと昔から原っぱだったとかそういうことだと読んでいるんですが、この「はじめっからの原っぱ」って言われたときの場面の広がりが、公団団地抜けた先の原っぱであることは間違いないんですけど、一面の原っぱっていうか、ちょっと物語的な原っぱというか、原っぱのニュアンスが深くなりますよね。何か不思議なことが起きているというか、全体を通して不思議なことが起きている歌だと思いました、すごい、どうしよう。
橋爪:不思議なことが起きているっていうのめっちゃ分かります。視野がぐんって広がる感じというか。「原っぱ」が二つ書いてあるけど、一個目より二個目の「原っぱ」のほうが、「はじめっから」っていう言葉だけじゃなくて広い感じっていうのはすごい分かったし。「原っぱ」、「蜂に」、「はじめっから」、「原っぱ」ってめっちゃ「は」で調子を整えてる感じがして、なんて言うんだろ、現代詩の定型の詩を読んでる感じがした。いや分かんない、違うのかな、ちょっと待って。
牛尾:あとこれ上の句も、普通こういうの言葉が詰まってるって言われるやつだと思うんですけど、なんか説得されてしまった。公団団地を抜けて、抜けたところが原っぱ。「公団団地抜けて原っぱ蜂にキス」ってすごいぎゅっとなってるし生硬な感じになりうると思うんですが、それが傷になってないなって。普通こういう言葉の詰め方するとやだなって思うことのほうが多いと思うんですよね。何なんでしょうね。
橋爪:スピード感のある踊りをおどってるような感じがすごくするなって思いました。個人的には。「は」で調子整えてるからなのかな。でもそれだけじゃないんですよね。「蜂にキス」ってすごい不思議じゃないですか、意味上は浮いてる感じもするんですけど。
牛尾:うん、不思議ですよね。しないしね。
橋爪:すごい不思議だと思います。なんかちょっとアニメーション的なとこなのかな。
牛尾:あ~。
田島:アニメだと、こう、作画がちょっといきなりかわいい絵柄になって、キスしたらそのまま原っぱに開けるっていうアニメーションがすごく作れる。
牛尾:分かる分かる。
橋爪:たしかにたしかに。それはそうです、分かります。
牛尾:でも公団団地なんですよね。
田島:『林立』って、確かかなり林の話をしてませんでしたっけ。
牛尾:『林立』はまじで杉林の話をしてますよ。
田島:そうそうそう、杉林だ、杉林の話をしてて。
牛尾:だって「林立」っていう連作が七まであります。
田島:そうそう、えっ、これまだ続くの? ってめっちゃ面白かったんです。
牛尾:『林立』めっちゃ面白いですよね。
田島:うん、面白かった。
牛尾:『林立』もさっき言った、関連した話題が次々繋がってく面白さみたいなのがあるんですけど、『林立』はそれを詞書とか引用とかよりも歌そのものでやってるから、なんか、強いんですよね。
田島:なんか確か、林の話がずっと続いてる中に公団団地があると、それは公団団地は良くないものなんですよ。
牛尾:そうかな(笑) 別に林の話だって杉林礼賛ってテンションじゃないから。
田島:なんか、うん、原っぱがあったほうがうれしいですよね。『林立』がすごく面白かった記憶だけあってちょっと、覚えてないや。
牛尾:『林立』はそうですね。いやでも、やっぱり話題って大事なのかもしれない、杉林について大真面目に七つ連作も作られてることがすでに可笑しい。ちょっとおもしろすぎる。
橋爪:うんうん。
田島:なんか昔の人の連作ってそういう感じだったんじゃないかとも思うんですけどね。特に、塔の、アララギ系の連作というのはそういう同じような話を、ここにいったとかあそこにいったとかそういうので一纏めになっているというのはある。その機に遇して作ったものとして纏められてるときが多いじゃないですか、そんなような感じかなと。
最初の歌に戻るけど、七音から「抜けて原っぱ」があんまり詰まってないのは、橋爪さん「は」の話されてましたけど、「公団団地」のリズム感のよさとかもあるような気がしました。七音だけどあんまり七音ぽく見えない。「蜂にキス」でちょっと止まるところ、語彙的に「キス」がちょっと浮くのもあって、そこでリズムが変わる感じがもたらされるので、あまりそういう「公団団地抜けて原っぱ」の勢いというものが気にならなくなるかなと思いました。「蜂にキス」につづく「ここは」もかな。「ここは」で受けてるところも実は技あり?
橋爪・牛尾:ああー。
田島:うん、いい歌ですね。
橋爪・牛尾:うん。


2021年8月18日 Zoomにて
(今回の更新はおわり)

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