本当に孤独は執筆に役立つのか

 最近、知人友人との縁を失うことがやけに多い。それぞれの事態をよくよく検討してみると自分が悪かった場合もあれば相手が悪かった場合もあり、また自分も相手も悪くない場合もあるのだけれど、これほどまでに多くの縁を失うと、そろそろ「予防」ではなく「対処」を考えなければならないなあ、とも思うようになる。今の僕に必要なのは「孤独を避けるにはどうすればよいのか」という知恵ではなく、「孤独に耐えるにはどうすればよいのか」という知恵なのだ。
 そもそも孤独の何が苦痛なのか。自分の考えを話す。相手の考えを聞く。こうした営み(一般に「会話」と呼ばれる)を繰り返さなければ、僕は自分が段々と狂っていってしまうような気がするのだ。しかしそう考えると今度は「そもそも発狂の何が苦痛なのか」という問いが生まれる。そう問われると僕はどうしても「発狂は孤独な状態だからだ」と答えたくなってしまう。発狂した人間は、自分の考えを話し相手の考えを聞く、という営みに健全に参加することが出来ないのだ。こう考えていくと、孤独への恐怖と発狂への恐怖は僕の中で循環論法を形成しているということが分かる。
 さて。人間のコミュニケーションが「話す-聞く」しか存在しないのであれば、たしかに知人友人を失うという相対的な孤独はそのままに絶対的な孤独へと帰着してしまうだろう。しかし人間のコミュニケーションには他にもさまざまな種類が存在する。たとえば人間は、「書く-読む」というやり方でも人と通じ合うことが出来るのだ。そして僕は、小説家を目指している以上、「話す-聞く」よりも「書く-読む」に自らの軸足を置きたいと願っている。
「話す-聞く」というコミュニケーションにおいて僕たちは常に目の前の相手を想定している。目の前の相手が変わればそれによって伝える内容も形式も変わる、というのが「話す-聞く」というコミュニケーションの鉄則なのだ。一方、「書く-読む」というコミュニケーションにおいて僕たちは相手を想定し尽くすことが出来ない。今僕が書いているこの文章を読んでいるそこのあなたは、僕が想像も出来ないような経験と知識と思想を持っているかもしれない。だから何かを話す時と違って、何かを書く時の僕には「相手に合わせて伝える内容や形式を変える」ことが出来ないのだ。
 僕には友人A・B・Cがいる。そして僕は、彼ら一人一人に対応する「話し方」a・b・cをも有している。彼ら一人一人と「話す-聞く」というコミュニケーションを取り結ぶかぎりにおいて、「話し方」a・b・cは本当に有効に機能する。
 さて。このような「話し方」を使って文章を書いたらどうなるのだろうか。友人A・B・Cに物を話すようなやり方でもって物を書いたら、一体どのような文章が出来上がるのだろうか。僕は、「書く-読む」というコミュニケーションにおいて、「話し方」a・b・cは有効に機能しないだろうと考える。友人Aと話す時、僕は友人Aに伝わるような話題と話法を選んでいる。そうした話題や話法の結晶である「話し方」aを「書き方」として用いると、必然的に「友人A以外には決して伝わらない文章」が生み出されてしまうのだ。
 かくして僕は、話して伝わることを書くと伝わらない、という奇妙な事態へと辿り着いた。ならばこの裏は正しいのだろうか。話して伝わらないことを書くと伝わる、という事態は果たして起こりうるのだろうか。
 話して伝わらないことを書くと伝わる。このような事態がどういったメカニズムのもとに起こるのか、今の僕にはうまく説明することができない。けれどもこうした事態はたしかによく起こっているような気がする。そして、こうして事態が起こりうるのであれば、僕は現在の自分の孤独にも耐えることが出来るような気がする。今の僕の孤独は所詮「話す-聞く」というコミュニケーションにおける孤独であって、「書く-読む」というコミュニケーションにおける孤独ではないからだ。僕にとって物を書くという営みは「孤独を避けるための知恵(予防)」ではなく「孤独に耐えるための知恵(対処)」なのかもしれない。
「閉じた文章ではなく開かれた文章を書こう」といったスローガンを近頃よく耳にする。「閉じた文章」なるものを「特定の人間にしか伝わらない文章」といった意味に捉えると、実は「閉じた文章」を書く人間は「開かれた文章」を書く人間よりもずっと高い社会性を有しているのかもしれない。社会性の高い人間ほど相手A・B・Cに伝わるような話し方a・b・cを選択することに長けているのだから、「話して伝わることを書くと伝わらない」という罠にもとらわれやすいのだ。そう考えると、近頃の僕の社会性がますます低くなっているのは書き手としての僕の能力を高める良い契機になるのではないか? という気もしてくる。僕の「話し方」が通じる人間が減れば減るほど、僕の「書き方」が通じる人間はますます増えていく、そう考えると孤独というのもそれほど悪いことではないように思えてくる。ひとりよがりの空想かもしれないが……
 ひとまず今日、僕は誰か特定の友人知人を想定することなくこの文章を書いてみた。テーマが「孤独」である以上、孤独でない時に僕が使っているような「話し方」は極力避けようと思ったのだ。果たしてこの文章は読者の皆様に伝わったのだろうか。ちゃんと伝わったのであれば、「話して伝わらないことを書くと伝わる」という僕のロジックも大きく間違ってはいないのかもしれない。

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