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構成読み解きと他者論

 皆様こんにちは。構成読み解きを批判しながら構成読み解きにしがみつき続ける男、黒井瓶です。我ながら自分の粘着気質には呆れ果てています。
 さて、僕は以前noteにてfufufufujitaniさんを批判しました。

そしてそれに対しfufufufujitaniさんは二件の記事で応答を行いました。

その後僕はこの議論を長らく放置していました(fufufufujitaniさん、申し訳ありません)。
 近頃fufufufujitaniさんは個々の作品の読み解きにとどまらないより抽象的な記事(『漱石徒然草』や『作品構成についての研究』など)を多く執筆するようになりました。そしてそれを読むことによって、僕は構成読み解きを分析するための新たなアイデアを得ました。そこで僕はこの記事を書くことにしました。

表口と裏口

 以前fufufufujitaniさんへの批判記事を公開した時、とある方から「これは否定神学だ」とのお言葉をいただきました。

その頃の僕は「否定神学」という言葉の含意を上手く理解できていませんでした。しかし、東浩紀氏の『存在論的、郵便的』を読んだことにより、なぜそのときその方が僕の記事を「否定神学」と評したのかがなんとなく分かるようになりました。
 東氏は『存在論的、郵便的』の中で「否定神学」という言葉を「形而上学」の対義語として用いました。そして彼は形而上学と否定神学の二項対立をまとめて批判した上で、それらを乗り越える「郵便的思考」なるものを提示しました。郵便的思考はともかく、形而上学と否定神学の対立は構成読み解きについて考える上で有効な概念だと思われます。
 さて、形而上学とは、あるいは否定神学とは一体どのようなものなのでしょうか。細かい意味を排除して簡略化すると、
形而上学とは「真理は語り尽くせる」とする思考である
否定神学とは「真理は語り尽くせない」とした上で「語り尽くせないものこそが真理だ」とする思考である

という説明になります。一般的に人間は知らないことを知っている(日常的な、もしくは論理的・数学的な)言葉に転写することによって物事を理解します。一方、否定神学は「語り尽くせないもの」こそを真理だと捉えます。それゆえ否定神学を信奉する人々は一般的な(形而上学的な)認識を超えた直観などを重視する傾向にあります。砕けた表現をするならば、形而上学が表口から入る思考であるのに対し否定神学は裏口から入る思考だ、ということになるでしょう。

転写と表口

 さて、構成読み解きという文学研究の方法論について今一度確認をしましょう。
 構成読み解きは「章立て表」の作成をその最大の特徴としています。章立て表とは文学作品の内容を書き写した表のことです。章立て表には画素数が粗いものも細かいものもあります。これを作成することによって構成読み解き家は文学作品の内容を漏らさず捉えようとします。
 また、構成読み解きは語学と周辺資料を軽視します。構成読み解き家は基本的に、あくまでも(研究対象としての)当の文学作品のみを、それも現代日本語に訳された当の文学作品のみを資料として用いるのです。
 これらの特徴にはある一貫性があります。それは「転写への信頼」です。章立て表には文学作品が転写されています。また翻訳という行為も異言語から日本語に対する転写として捉えられます。(詳しい説明は省略しますが、周辺資料の軽視も転写への信頼と結びついています。)
 転写への信頼という特徴は構成読み解きの方法だけでなくその研究結果にも表れています。
 構成読み解きは多くの場合、「内部の対応関係」か「外部の下敷き作品」を発見します。「内部の対応関係」には鏡像構造や反復構造、もしくは(ドストエフスキー研究に象徴される)キャラクター戦略などが挙げられます。

一方、「外部の下敷き作品」の発見における代表例はやはり「ニーベルングの指環作品群」でしょう。

 これらの研究結果はすべて「転写」という概念で説明することが出来ます。『夢十夜』の後半には前半が(形を変えて)転写されています。『カラマーゾフの兄弟』の女性信者たちにはミーチャ、イワン、アリョーシャの三人が(形を変えて)転写されています。『グレート・ギャッツビー』には『ニーベルングの指環』が(形を変えて)転写されています。
 転写に転写を重ねることにより、構成読み解き家は最終的に文学作品を自分たちの知っている言葉へと転写します。そしてそれにより彼らはその文学作品を「語り尽くした」とします。これらの行動はみな東氏が言うところの「形而上学」と共通しています。実は構成読み解き家は、既存のアカデミズムよりもよほど愚直に「表口」から文学を知ろうとしていたのです。
 研究方法における転写であれ研究結果における転写であれ、転写が失敗していた場合は当然に構成読み解きも失敗します。それゆえに構成読み解きは「転写への信頼」に基づいていると言うことができます。

経路の抹消

 転写への信頼は転写経路の抹消を伴います。
 上記の考え方は僕のオリジナルではありません。東氏も『存在論的、郵便的』の中で同様の主張を行なっています。

彼にしたがえば西洋形而上学においては、「真理である」とはつねに、情報が媒介(エクリチュール)により歪められず、発信地での状態と同じ状態で届くこと意味している。つまり「真理」の真理性は一般に、情報の伝達過程における劣化、事故の可能性を極限まで減らした理想状態としてイメージされている。そして事故可能性のその排除はまた、情報の伝達経路を完全に遡行すること、さらに経路そのものを無化することだと言い換えることもできる。
東浩紀『存在論的、郵便的』第二章より 「彼」とはデリダのこと。「完全に」には本来傍点あり)

 具体例を挙げましょう。構成読み解きは語学を軽視することによって「翻訳」という行為を経路から抹消しています。本来、私たちとゲーテの間には翻訳家が存在しています。しかし私たちは翻訳家を意識することがありません。私たちが翻訳家を意識するのは翻訳家が誤訳をした時のみです。誤訳(転写の失敗)が起こらないかぎり、私たちにとって翻訳家は透明な存在であり続けるのです。そして構成読み解きにとっても、翻訳家は基本的に透明な存在です。
 また、構成読み解き家にとっては構成読み解き家自身もまた透明なものとして存在しています。fufufufujitaniさんはよく「私はただ丁寧に読んでいるだけだ」「丁寧に読めば誰でもこの結論に至る」と述べています。一見謙虚ですが、結局この主張もまた経路を抹消する形而上学のシステムをなぞったものでしかありません。
 そればかりではありません。構成読み解きは、文学作品を書いた作家当人までをも抹消しようとしているのです。「『グレート・ギャッツビー』は『ニーベルングの指環』を下敷きにしている」と言った時、その構成読み解き家は『グレート・ギャッツビー』を『グレート・ギャッツビー』としてではなく『ニーベルングの指環』として読んでいます。フィッツジェラルドが(ワーグナーではなく、まさに)フィッツジェラルドである地点を、構成読み解きは「ノイズ」として取りこぼしてしまうのです。
 そもそも構成読み解きはノイズの抹消によって成り立っています。前述したとおり、研究結果として得られる「転写」は常に形を変えて現れます。『夢十夜』の後半は前半の完璧な転写ではありませんし、『グレート・ギャッツビー』も『ニーベルングの指環』の完璧な転写ではありません。転写が完璧だったらもはや『グレート・ギャッツビー』は端的に『ニーベルングの指環』と同一視されるでしょう。転写は常に不完全でしかありません。そしてその不完全性にこそ文学の創造性はあるのです。
 しかし構成読み解きはそのような創造的ノイズを抹消します。ノイズが抹消されると、私たちにはコンラッドとフィッツジェラルドと三島をみなワーグナー「として」画一的に読むことしか出来なくなります。構成読み解きの形而上学システムに従うと、文学作品の中に「知らなかったこと」を探す行為は不毛となります。私たちは文学作品の中に「知っていたこと」を見つけることしか出来なくなるのです。
 さて、その「知っていたこと」とは一体何なのでしょうか。

文学と他者

 僕は、「知っていたこと」は究極的につきつめると自我である、と考えています。構成読み解きには、「文学作品から他者や差異を抹消し、すべてを自我の同一性に回収していく」という欲望が内在していたのです。
 前述したとおり、構成読み解きの研究方法を用いると文学作品からは「知らなかったこと」が消え去ります。それにより、読書は「知っていたこと」を確認する作業でしかなくなります。
 さて、その文学作品を書いた作家は私たちにとって紛れもない他者です。そして私たちは他者のことを「知らなかったことをもたらす存在」として理解しています。
しかし構成読み解きは文学作品から経路としての作家、すなわち他者を抹消します。それにより私たちは自我と触れ合うことしか出来なくなります。構成読み解きの明晰さはつまるところ「知っていたことを知る」ことの明晰さ、トートロジーの明晰さでしかないのです。
 実を言うと、fufufufujitaniさんは以前からそのことに気付いていました。

人間は究極的には自分にしか興味がありません。他人は自分の延長線上にしか存在しません。
物語が思想哲学に比べて人気があるのは、自分の行動を記述するからです。他人の行動を記述していても、読者は自分の行動と理解します。エゴを仮託した人物に行動をさせて疑似体験をし、世界を理解してゆく、それが物語の根源的な欲求だと思います。自分に当てはめると把握しやすいですから。
「物自体の探求」ではなく、「物自体への興味のなさ・自分に対する濃すぎる興味」が物語を発生させる。ひどい話ですが。
fufufufujitani「黒井氏の批判に答えて・2」より)

構成読み解きによって得られるものが自我への回帰でしかない、ということをfufufufujitaniさんが肯定するのであれば、僕には何も言えることがありません。しかし、考えてみてください。fufufufujitaniさんは日頃から文学をコミュニケーションツールの一種として捉えていました。そうであるならば、構成読み解きもまた他者とのコミュニケーションを補助するという点において(=他者理解を促進するという点において)価値あるものと見なされなければならないはずです。自我にしか回帰しないコミュニケーションツールは、もはや不要なのではないでしょうか。
 僕は構成読み解きをよく行なっています。しかし僕は、構成読み解きが「自我への回帰」であることをよしとはしていません。また僕は、読書とは他者との出会いであるべきだ、という考えを持っています。そのような考えに立つと、「分かる」ということは第一に重視すべき事柄ではなくなります。
 fufufufujitaniさんは「漱石徒然草・3」の中で次のようなことを述べました。

仕事は所詮は方法論である。文学理論は読めていることを前提にしている。読めていない場合どうするか、より精度の高い読みを実現するためにどうするか、その方法論がどうも文学研究には完全に欠落していたようである。

これについて僕は「逆なのではないか」という考えを持っています。僕が知るかぎり、現代の文学理論はむしろ「読めないということ」を根本の原理に据えた上で、なおもテクストと付き合っていくためにはどうすればいいかを考えるものが多いです。そしてそのような態度は構成読み解きが抹消した「他者」を復活させようとするものでもあります。

漱石と裏口

 さて、ここまで僕はfufufufujitaniさんと彼が始めた構成読み解きに対する批判を長々と述べてきました。しかし、最近のfufufufujitaniさんはおそらく僕が言った批判をすでに理解しています。もっとも僕のように思想的な用語を使って理解しているわけではありません。より直観的かつ具象的な領域で、fufufufujitaniさんは構成読み解きの不完全性を理解しているのです。
 その証拠が「漱石徒然草」シリーズと「作品構成についての研究」シリーズです。

これらのシリーズはどちらも夏目漱石に関する構成読み解きに端を発しています。漱石作品の読み解きを経て、fufufufujitaniさんは「漱石作品にはどのような構造があるのか」を理解することに成功しました。しかし「なぜ漱石作品にはこのような構造があるのか」を理解することは出来ませんでした。そこでfufufufujitaniさんはさらに思索を進め、「作品構成についての研究」では自ら物語を執筆しながら構造の意味を探ろうとしました。このときの彼の行動は、『警察と探偵』で僕が述べた二分法に従えば明らかに「批評家」の領域に属しています。fufufufujitaniさんは今、表口(形而上学=構成読み解き)だけでなく裏口(否定神学=批評)までをも自力で通り抜けようとしているのです。
 そればかりではありません。「漱石徒然草」の最終章において彼は漱石の姿を感じ取り、漱石に「情が移った」と述べ、さらには「漱石に会えるのではないか」という予感を文章に綴っています。直観を廃した文学研究を創始したfufufufujitaniさんは、今や直観に基づく批評を書く人間となったのです。

そこでfufufufujitaniさんは「読み解き家もこうなっては終わり」という自己評価を下しています。さて、なぜ構成読み解き家は「こうなっては終わり」なのでしょうか?
 前述したとおり、構成読み解き家は文学作品から作家という他者を抹消します。それゆえいくら構成読み解きを行なっても、「なぜ漱石作品にはこのような構造があるのか(なぜ漱石は作品にこのような構造を与えたのか)」という根本の問いは放置され続けます。しかし、fufufufujitaniさんはその問いに向き合いました。そして彼は、構成読み解きによって抹消された他者というノイズをあえて掬おうとしました。その結果、fufufufujitaniさんは批評家になりました。この試みは従来の構成読み解き=形而上学システムから逸脱しています。それゆえ構成読み解き家は「こうなっては終わり」なのです。しかし、僕はむしろこの試みこそを重視します。
 fufufufujitaniさんの漱石に対する直観が当たっているのか否かは僕には分かりません。形而上学(構成読み解き)と否定神学(批評)が相互に補完可能なものなのかも今の僕には分かりません。ただ僕はfufufufujitaniさんの一門下生として、彼の最近の文章を興味深く注視しています。

 fufufufujitaniさんによる応答はこちらになります。


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