主観的体験の共有不可能性と芸術の意義


第1章 主観的体験

あなたの周囲には世界が広がっている。それをあなたは見たり聞いたり触ったりして知覚している。あなたの周囲には物質的で客観的な世界が存在するが、あなたはそれをそのまま知覚することは出来ない。必ず何らかの感覚器官を介さないと知覚することは出来ない。
たとえば机の上にペンがあったとする(事象)。あなたはそれを見て「ペンがあるな」と理解するが、それはペンがそこに存在しているという事象を直接理解しているのではない。目の前の様子を見て、それをペンだと思うので、ペンがあるなと思うのだ。あなたはペンがあることではなく、自分が目の前の物を見て、それペンだと思っていることしか認識できない。
もうひとつ例を挙げよう。あなたが辛い唐辛子を食べたとする。あなたはそれを当然辛いと感じるが、それは「唐辛子が辛い(辛い成分を持っている)」という事象を直接理解しているのではない。唐辛子を食べて舌が何らかの反応を起こし、結果辛いと自分が感じたことしか認識できない。
ペンが机の上にあることや唐辛子が辛い成分を持っていることは客観的な事実である。それに対して、あなたが物を見てそれをペンだと思っていることや辛さを感じていることは主観的なことである。これらのような、あなたが実際に感じていること、それを主観的体験と呼ぶことにする。何かを見ること、聞くこと、触れて感じることなどは全て主観的体験である。客観的世界は全て主観的体験として初めてあなたの世界に現れる(現象)。周囲との関わり合いは全てあなたの視座における主観的体験としてのみ得られる。
周囲のみならず、自身の物理的(客観的)な事象(対象や出来事)も、同様に主観的体験としてのみ認識できる。身体の形状、位置などの自分に関する客観的なものごとも、それをそのまま知覚しているのではなく、主観的体験として認識している。身体の形状は視覚や触覚、自分の位置は視覚などによってそうだと思ったからそうだと認識している。
では、周囲と自身の客観的な事象が全てだろうか。それらだけであなたの世界は構成されているだろうか。違う。あなたの内心にある、はじめから主観的な現象(感情、感覚、記憶など)もあなたは認識できる。これももちろん主観的体験である。
まとめると、あなたの世界に現れているものは、客観的世界を感覚器によって主観的体験として認識した物と、内心にある主観的現象、これらのみある。これらの総体こそが世界である。それ以外を感知したりすることは出来ない。本質的にあなた(人)は主観的体験が全てである。水槽脳の思考実験と似たような話ではあるが、客観的な実体が存在するか否かはここでは問題にしない。

第2章 主観的体験の共有不可能性

第2章の1 共有不可能性

第1章で、あなた(そしてすべての人)にとって世界は主観的体験がすべてであると結論づけた。そして主観的体験は他者と共有することが不可能もしくは極めて困難である。詳しく説明しよう。人物Aが人物Bに自分の主観的体験を共有したいとする。人物Bにとっての世界は客観的事象(を認識した主観的体験)と自分の内心であり、それらのみである。人物Aの主観的体験は人物Bにとっては客観的事象でもないし自分の内心でもない。ゆえに人物Aの主観的体験は人物Bの世界にはない。これが一つ目の問題。
では、人物Aの主観的体験を人物Bの世界に現れさせる必要がある。人物Bの世界に現れさせるには、客観的事象に置き換えて、それを人物Bが現象として認識する必要がある。この置き換えが難しいというのが2つめの問題。主観的体験それ自体は物理的性質をほぼ持たない。発生した時刻といった性質は持つが、色や形や場所などその他の物理的性質は持たない。ゆえに、主観的体験をそのまま物に置き換えるのは難しい。
主観的体験を他者に共有(伝達)したいときに我々がよく用いるのは言葉である。言葉は客観的事象だ。主観的体験を言葉に置き換えるわけだが、この置き換えを正確に行うのは極めて難しい。たとえば、あなたが恋人に愛を囁いて恋慕の思いを伝えたいとする。このとき、あなたがまさに内心に抱いている感情(単に愛しいと言っても、その単語が指しうる感情状態は当然ひとつではなく、連続的に多様である。また単語ひとつで表されるものではなく、たくさんの感情が複雑に同時に起こっている)や、想起される記憶や映像、それらの相互作用で時間的に変化している内心の様子を正確に言葉に翻訳して、それを聞いた相手が“その感情”をちゃんと分かるだろうか。そんなことは不可能である。言葉で気持ちを伝えるときは、微妙で複雑な部分を膨大に削ぎ落としている。言葉は50音×数十〜数百の組み合わせである。これでは少なすぎて、感情と言葉を正確に対応させる写像が存在するはずがない。
初めからある程度言語の形を取っている「思考」は比較的他者に伝達しやすいが、感情や感覚などの非言語的な主観的体験は言語にして正確に共有するのは不可能である。
では言語以外の客観的現象では伝達できないのかという問いに関しては第3章で議論する。

第2章の2 共有可能な他者

さて、あなたの感情や感覚はあなただけが体験できて、他者と直接共有することは出来ないのだが、その原因はあなたと他者が違う人間だからだ。あなたは自分の主観的体験を他者と直接共有することができない。それは取りも直さず、あなたと他者が異なる自我を持っているということだ。他者とはそういうことだ。主観的体験を共有することが出来るのは自己とだけである。それを共有と言うのかは微妙だが。
世界そのものである所の主観的体験を他者に一切伝えられないと言うのは大きな絶望である。自分の気持ちを正確に伝えられなかったり、相手の考えが分からなくてもどかしかったり。自分と相手の差異に気づけずに傷つけ合うこともある。相手の中に存在している自分の像を見ることが出来ないために苦しむという自意識の問題もある。では、主観的体験を共有可能な他者が存在するとしたらどのような場合だろうか。3つ例を考えてみたので紹介する。
一つ目は全知の神である。神は定義上、全てを知っている。当然、私たちの主観的体験もすべて知っている。私たちも神の内心全てを知ることが出来る。我々ひとりひとりと神が一心同体(同体ではないが)である。神は完璧な理解者である。
二つ目は、自己と他者の境界を消滅させて混ざり合った一つの存在にすることである。エヴァンゲリオンやシメジシミュレーションみたいなことだ。ただこうしたとき、他者へ向ける意識はそのまま自意識になってしまうという別の問題がある。
三つ目は、ものに代弁させることで擬似的に自己の分身としての他者を作り出す方法。ぬいぐるみに自分の思っていることを喋らせたり、VOCALOIDに自分の思想を歌わせたりすることだ。VOCALOIDは歌唱ソフトウェアであるので、使用者自身の思うとおりに操作できて、思うとおりのことを歌わせられる、自己の拡張のような存在だ。あなたの書いた文章があなた自身と見なせるのと同じだ。そのような半自己的なVOCALOIDに初音ミクというキャラクター(人格)を見出すことで、自己と一体化した他者をそこに置くことが出来る。初音ミクは他者でありながら、私の主観的体験にアクセスすることが出来、まったく情報の欠落無く理解できる。それは初音ミクの主体が私だからだ。

第3章 芸術について

第3章の1 芸術は主観的体験を表現することが出来る

様々な知覚と、それに呼び起こされる感情や記憶が相互作用しながら交ざったものが主観的体験だ。例えば視覚でも単に見るだけではなく、見る対象(人や景色や物)に美や愛着や哀愁など様々なことを感じる。視覚以外でもあらゆる知覚から複雑な主観的体験が起こる。知覚は周囲に対してのみではなく、自分の記憶や知識や想像など、自己を含めたあらゆる対象に起こる(記憶の中の風景を懐かしんだり、想像した未来の出来事にワクワクしたり)。そういった様々な知覚とそこに生じる感情などの主観的体験も、第2章で書いたように他者と直接共有することはできない。
芸術はそういった主観的体験を表現することが出来る。表現とは主観的体験を具体的な造形(絵、彫刻)や音、文章などにすることで、それを鑑賞した他者がそれを追体験出来るようにすることである。自己の中にしかない主観的体験を表(おもて)に現わすことである。
ある絵描きが夕暮れの風景を見て寂しさや懐かしさの混ざったある感情を抱いたとする。それを表現しようと思った絵描きはその感情を込めて夕暮れの風景(感情の原因)の絵を描く。その絵を見たひとが、寂しさや懐かしさの混ざった感情を想起する。このようにして作者の主観的体験を鑑賞者に共有することができるのだ。
もちろん、誰でも簡単にそれができるわけではない。極めて精密に自分の内心を見つめ(内省)、正確に芸術として表現して鑑賞者に同じ感情を起こさせることが出来る人を、優れた芸術家と呼ぶのだ(しかし、鑑賞者が作者と同じ感情を覚えたか確認することは出来ない(主観的体験の共有不可能性)ので、鑑賞者が「作者の気持ちが伝わってきた」と感じたという事実しか確認することができない)。また芸術は主観的体験を他者と共有可能にするだけでなく、そのままでは忘れて薄れていってしまう主観的体験を客観的なもの(作品)にして固定し、作者が自分でもあとから再現できるようになる。
主観的体験という強烈に個人的なものでも、芸術にすれば作者以外の人の目にもまるで自分の体験であるかのように映ずるところに芸術の神秘がある。
第2章の1で、主観的体験は言語では伝達できないと書いたが、それは主観的体験そのものを文章に移し替えて(翻訳して)伝達することが出来ないという意味である。そうではなく、その主観的体験を得た原因となる出来事と感じたことを文章で表現して、読者がまるで追体験しているような臨場感溢れる文章であれば、主観的体験を伝達することは出来る。
まとめると、芸術は主観的体験を、それの原因となる物や出来事を絵や文などで表現することで、主観性を損なわないまま鑑賞者に追体験させることが出来る。主観的体験を直接伝えるのではなく、一度作品を経由して伝えるのだ。

第3章の2 絵について

ここまでの話に関連して、絵について筆者が考えたことを少し記そう。特に絵画と写真を比較して見る。
私はずっと、風景画や静物画というものの意味が分からず不思議だった。現実にない世界、イマジネーションを表現する絵は、それを描く意味が分かるが、現実にあるものを何故わざわざ描くのか不思議だった。写真の下位互換にしかならないのではないかと、かつて思っていた。
ある日そのことを考えていて、絵を描くことの意味を二つ思いついた。
ひとつは、情報の取捨選択。写真だと現実の映像が全てそのまま写る。絵ならば描く人の意志によって必要な情報だけ描くことが出来る。例えば本棚のある風景を描く際に、本のタイトルが表現にとって不要であれば省略することができる。また、人の顔を描くときに皺などが不要であれば描かないことができる。必ずしも写実だけが目的ではないからだ。
もうひとつは、現実の映像(視覚情報)を一度画家が解釈したものを改めて出力すること。つまり、画家に世界がどう見えているかを表現することができる。解釈というフィルタを通すことで、ただそこに存在している客観的世界から、画家が認識している主観的世界になる。それを出力するのが絵というものである。視覚のみならず、気温や湿度、風、周りの音、そのときの気持ちなどの主観的体験を精密に認識し(メタ認識)、作者が見て聞いて感じている世界を絵に表現する。認識している世界をどれだけ忠実に絵として出力できるかが「絵のうまさ」の一つだ。「私にはこう見えているんだ」という世界を人に伝わるようにキャンバスに描画するのが、絵を描くということなのだと私は思う。
写真家の方々から叱られそうなので念のため言っておくが、もちろん写真にも芸術的価値があることを筆者は理解している。撮る対象や構図や撮り方やレタッチやキャプションや配置など、写真には多彩な表現があるし、筆者もそれらを楽しみに写真展へ行くことがしばしばある。

第4章 エロ漫画の主観的体験表現

芸術の目的のひとつは、本来他者と共有することが出来ないはずの主観的体験を、作品として具現化することで共有可能にすることであると第3章で書いた。
さまざまな漫画ジャンルが存在するが、その中でエロ漫画は主観的体験を表現することにおいて特に優れたジャンルであるというのが、この章で筆者が主張したいことである。ここで扱うエロ漫画とは、エロティックなことを登場人物が体験するストーリーを描き、読者に性的興奮を起こさせることを主な目的とした漫画ジャンルのことである。日本で発行されている男性成年向け漫画の多くはこの定義に当てはまると思う。
エロ漫画には登場人物がエロティックな体験をして興奮している様が描かれており、それを読者が読んで興奮する。エロティックな体験とはすなわち、性交(やそれに類する行為)の最中の視覚、聴覚、触覚などの主観的体験である。その中でも特に視覚について考えていこう。
登場人物が異性の裸体を見ている場面だとする。この時、登場人物と読者は共に性的興奮というよく似た感情になっており、その感情の主な原因となっている対象は共に異性の裸である。登場人物と読者はほぼ同じ要因でほぼ同じ感情になっている。これはエロ漫画の特徴である。
ここで次のような反論が考えられる。
『その特徴はなにもエロ漫画に限ったことではなく、例えば「愛犬が死んで悲しんでいるヒロイン」の場面を読んだ読者が悲しい気持ちになることもある』
だが、愛犬のケースで読者が悲しんでいるのは、もし自分がこのヒロインと同じ体験をしたら悲しいだろうという推測、すなわち共感に因るものである。それに対してエロ漫画の場合、読者は単に異性の裸の絵を見て興奮しており、登場人物への共感を介した興奮ではない(少なくともそれがメインではない)。愛犬のケースと違って、読者はより登場人物と同じ体験でもって同じ感情を得ている。つまり、読者は登場人物の体験と感情を疑似体験していることになる。
没入や想像の結果まるで体験しているかのような錯覚を覚えるのでは無く、登場人物が感じている興奮と実際に同じ要因で興奮しているのだ。登場人物と読者が同じ体験をして同じ感情を起こしているのだ。このようなものを同因感情と呼ぶことにする。
はたしてエロ漫画以外に同様の同因感情を与える漫画ジャンル(そしてそれが本質であるジャンル)は存在しないのか。これを今から考える。なおここからの議論は、ある程度の規模があってジャンルとして市場が成立しているものに限る。
漫画によって読者に与えることが出来る体験は、媒体の性質から「絵(や図)を見る」と「文字を読む」のふたつである。
「絵を見る」には、漫画内では現実に見えている物を絵として見る場合と、漫画内では写真などの実写画像として見えているものを絵として見る場合と、漫画内でも絵として存在しているものを見る場合がある。登場人物は現実または実写画像または絵を見ており、読者はそれの絵を見ている。
このときに、登場人物と読者が同じ体験をして同じ感情を起こすのはどのような場合があるか。登場人物の感情は、読者が絵を見て起こしうる感情である必要がある。読者が絵を見て一般に起こしうる感情(かわいさや美しさなどを見出して好ましく思う、エロティックだと思って興奮する、怖い、その他にもあるだろう)を登場人物も感じている必要がある。これらの感情の中で、登場人物が何かを見てその感情を抱くことがジャンルの本質であるのはエロとホラーくらいではないだろうか。他にもあるかも知れないが筆者には思いつかない。ここでは一旦、絵によって同因感情を与える漫画ジャンルはエロとホラーであると結論づける。
次に「文字を読む」についてだが、これは登場人物は音声で聞いて読者は文字で読むような場合も含めて広く「言葉を聞く/読む」とする。「言葉を聞く/読む」の中にはさまざまなパターンがある。例えば人から話しかけられるとか、会話をするとか、本を読むとか、他人の会話を盗み聞きするなど。その中で読者が体験しうるのは、自分に向けられていない言葉を読むことだけである。故に、同因感情を与えるためには、登場人物も自分に向けられていない言葉を読む/聞く必要がある。そのような行為がメインであるような漫画ジャンルがあるだろうか。筆者は思いつかない。ここでは一旦、無いとする。
以上により、同因感情を読者に与えるのがメインの漫画ジャンルはエロとホラーだけであると思われる。
エロ漫画は視覚による性的興奮を疑似体験の形で読者に与える。単なる共感よりも強く、リアリティを持った感情を体験することができる。それによって視覚以外のエロティックな主観的体験もより強烈に感じ、没入しながら読むことができる。このことをもって私は、エロ漫画は主観的体験表現をするのに優れた漫画ジャンルであると考える。

第5章 美について

美とはなんだろうか。美しい人の顔、美しい風景、美しい音楽、美しい文章など、美しさも様々である。これらに共通するのは、見た人がそれに対して何らかの良さを感じるという点だ。例えばりんごの絵の場合、りんごの色が良いだとか、輪郭が良いだとか、筆のタッチの太さが良いとか、筆の運びが良いだとか、影が良いだとか、背景が良いだとか、大きさが良いだとか、またそれらが合わさって相乗効果的に良いだとか。
まずは美に関する「良さ」の特徴を見ていく。大きさが良いから美しいとはどういうことか。絵のりんごを見て大きさが良いと思うのと、スーパーでどのりんごを買うか吟味してこの大きさがいいなと思うのとは異なる。後者は、そのりんごを買って自分で食べる際に、自分の食べたい量と比較してちょうど良いという意味だ。たくさん食べたい人は大きいほど良いと思うだろうし、ちょっとだけ食べたければ小さいのを良いと思うだろう。つまり、りんごを食べてちょうど満足したいという目的に適うという意味で「良い大きさ」だと思うのだ。一方、絵のりんごを見て大きさが良いと感じるのは、食べて満足したいなどといった特定の目的に対して適切であるかどうかではない。大きい→たくさん食べられる→満足(良い)のように間に何かが挟まること無く、大きい→美しい(良い)のように大きいという事実が直接良さ、快さを導く。この点で美しさに関する良さは他の場合の良さとは異なる性質がある。
次に美は対象の性質と言うよりもむしろそれを見る主体側の性質であるということを説明する。美しさあるいは良さという性質は、対象自体が持っているものではない。絵を見て美しいと感じる場合を例にしよう。まず、絵は客観的事象である。絵の具の物理的状態や、ディスプレイの各ピクセルの発光状態が絵である。そこに感覚的現象は存在しない。絵を鑑賞者が認識して初めて感覚的現象が生ずる。美が感覚的現象(主観的体験)であることは読者にも同意してもらえると思う。ゆえに美は絵そのものにあるのではなく、鑑賞者の中にあるのだ。「その絵が美しいという性質を持っているから、私はその絵を美しいと思う」という因果関係ではなくて、「私がその絵を美しいと感じる性質を持っているから、私はその絵を美しいと思う」なのだ。美はオブジェクト側ではなくサブジェクト側の性質なのである。そこにあるのは美しい物では無く、あなたに美しいと思われた物なのだ。

第6章 芸術を鑑賞するという主観的体験

第6章の1 美術館で絵を見るとは

絵には、絵の具などで描かれた絵と最初からデジタルで描かれた絵がある。前者の場合、その作品を置いてある美術館やギャラリーへ行けば、キャンバスなどに描かれた「本物」の絵を見ることができる。だが本物を見に行かずとも、画集やポスターやインターネットでその絵を見ることも出来る。絵とは基本的に[平面座標→色]の写像である。まさにピクセルのように、キャンバス上のそれぞれの位置にどのような色が配置されているかという事実が(ほとんど)その絵をその絵たらしめている。ゆえに十分な解像度と十分な色の再現度があれば、画集などの複製で本物をある程度代替することができる。だからこそ美術の教科書の図録はちゃんと意味があるし、好きな画家の画集を買って家でうっとりと楽しむこともできる。
では本物を見ることと複製を見ることに違いは無いだろうか。まず挙がるのはサイズの違いだ。大型の絵画の場合、画集などではたいてい縮小されて載っている。これは当然、見たときの印象を変えうる違いだ。巨大な壁画を実際に見るのとそれをA4サイズに縮小した物を見るのではまったく迫力が違うし、細かいところも見えなくなってしまう。
ではもしサイズも再現した複製(大判ポスターなど)ならば、本物を見るのとまったく違いはないだろうか。否、まだ重大な違いがある。それは光の反射である。先ほど、絵とは基本的に[平面座標→色]の写像であると述べたが、正確に言えば[平面座標→光の反射特性]の写像なのだ。絵のある位置が可視光をほとんど吸収する性質を持っていれば当然そこは黒く見える。特定の色を反射しやすければその色に見える。絵(にかぎらず全ての物)は色そのものが決まっているのでは無く、光の反射特性が決まっており、そこへ光が当たり反射することで初めて特定の色になるのだ。ゆえに当たる光の色や向きなどが変わればその見え方は変化する。ライトの種類や照らす向き、見る位置が変われば絵の見え方は変化する。このことを踏まえると、ポスターなどの複製品は、その絵に特定の色と向きの光を当てて特定の位置から見た特殊な場合での[平面座標→色]の写像を再現しているに過ぎず、絵そのものである[平面座標→光の反射特性]の写像を再現してはいないと理解できる。つまり、複製では本物を見る体験を再現できないのだ。だから美術館で本物を見ることに意味がある。
私があるギャラリーで見た絵のことを話そう。それは夜の川面を描いた絵で、映画ポスターくらいの大きさで、たしか黒鉛などで描かれた絵だった。鉛筆で塗りつぶしたことのある人なら分かると思うが、黒鉛は光をよく反射してキラキラと光る。その絵は画面一杯が真っ黒だが筆致が水の流れを描いていて、キャンバス上の位置によって光の反射具合が変わるように描いているため、ライトの光を反射してまるで川の水面が月光にきらめくように見えるのだ。見る角度によってライトの光の入射角が変化するため絵の見え方も変化する。その様子はまさに、夜中に川の側を歩いていると映る月が動き変化するのと同じであった。一方この絵をパンフレットに印刷された状態で見ると、そのような効果は当然得られなかった。なぜならば、パンフレットの印刷に使われているインクは鉛筆とは異なる光の反射特性を持っているからだ。この絵は、本物を見る体験を複製では再現できない例になっている。
絵は[平面座標→光の反射特性]の写像であり、それを照らす光源や鑑賞者の位置によって実際に目に届く光(色)が確定し、その絵を見るという主観的体験が生じるのだ。

第6章の2 作者が確かに存在したという希望

第3章で芸術は感情などの主観的体験を表現して鑑賞者が疑似体験できるようにすることが可能だと書いた。例えば絵画なら、鑑賞者は絵を見ながら画家が見た景色や画家の空想の中の風景をそこから感じ取って、それを画家が見たときの感情を想像する。作者がどのような主観的体験を表現しようとしたのかに思いを馳せる。それに伴って、作者がかつて存在したという事実を理解する。
芸術作品は、それを作った人間が、それが作られたときに存在していて、それを作る前や作る最中になんらかの主観的体験をしていたということの証左である。顔も知らない作者でも、何百年前の作者でも、作品が作られた当時にはその作者は存在していて、何かを思っていたのだと確信することが出来、その「何か」が今目の前に作品として表現されているのだ。伝記などがその人物の客観的存在の記録であるのに対して、芸術はその人自身の主観的体験の記録であり証明である。芸術を鑑賞して感動することは、時間や空間を越えてその作者に共感し、作者の主観的体験を疑似体験することである。あなたが何か芸術作品を鑑賞して感動したとき、救われたと感じたとき、その作品を同じような気持ちで作った人間が確かに存在したのだ。このことは巨大な希望だと言えないだろうか。

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