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ゆとりがあるから、回し車から抜けられる

「結婚して、子どもが生まれると、ゆとりが失われる」までが一つの仕組み

 「結婚して、子どもが生まれ、生活の安定のために、貨幣経済社会の中で、生きる」というのが、巧妙に誘導された、一つの形なのかもしれないと、ふと思った。

 結論が出ているのではないのだが、考察を述べてみたい。

 貨幣経済社会において、大抵の人は、結婚し、子どもが生まれると、生活は子ども中心にならざるを得ない(子どもそっちのけで、自分の欲望のままに行動する爬虫類脳は論外なので除く)。

 ゆとりやくつろぎは失われる。

 親はどうしても、生活の安定のために、お金を稼ぐ仕事、つまり、貨幣経済社会で、うまく立ち回る状況にならざるを得ない。

多くは、与えられる情報を鵜呑みにする

 そうなった時、情報を自分から取りに行き、吟味・俯瞰して、与えられている情報と与えられていない情報を識別し、何が起きているかの全体像を描ける人の方が少ないように思われる。

 多くは、結婚前も後も、外側から与えられる情報――多くはTV、新聞、身近な他人――を受け容れ、鵜呑みにするのではないだろうか。

 たとえ後者に、情報を吟味して、「批判的」に検討する人がいたとしても、その情報が、特定方向に誘導したい意図をもって、誰かによって発せられていることまで、見抜ける人はほとんどいないのではないだろうか。

箱の外が見えるようになるかどうかの分かれ目

 枠珍の本質や危険性、陰謀、巧妙に作られてきた社会の嘘、そうしたものに気づいて、調べ、隠されてきたピースを見つけて、より良い全体像を描いて、本当に自立的・自律的な人間になる人と、教えられてきたままを受け容れ、それを全く点検せずに、そのまま行く人の違いは一体何に起因するのだろうかと、ずっと考えている。

 これは、以前の記事でも、何度か考察した。

 少なくとも、学歴や社会的地位、職業というのは、重要な要因ではない。

 私の兄夫婦や学生時代の友人は、高学歴で、安定した地位・職業に就いているが、3回目までやっている。

 反対に、私は高学歴ではあるが、社会的には不安定である。

自分の「なぜ」を探究してきた

 ただ、これまでの人生で、理不尽を経験し、違和感を覚えて、「なぜなのか」を自分で探究したことがいくつかある。

 それは、それを知っている人が、自分の外側にいなかったためでもある。

 だから、自分で本を読み、自分の状況と照らし合わせて、自分なりに説明できる道筋を見出す以外に、理解にいたる道はなかった。

 そういうやむに已まれぬ事情により、内的探究が期せずして行われた。

 その過程で、与えられた情報の前提自体を疑うことは必須のものとして浮上してきたし、また、自分が持っているのは限られた理解であることに気付かざるを得なかった。

 さらに、こうした体験を繰り返せば繰り返すほど、どうしてある人々は、与えられた情報の前提を、無批判に信じられるのだろうかと、不思議にも感じるようになった。

いつの間にか開いていた友人との隔たり

 学生時代の友人は、私と同じぐらい、定職に就けなかった時期がある。

 だから、社会の厳しさ、思うようにいかない辛さ、その中で、自分に何ができるかという模索は、それなりに知っている。

 それゆえ、私も、資料を渡せば、わかってくれるだろうという期待を持った。

 だが、そうではなかった。

 枠珍に限らず、世の中の事象の捉え方は、誰かが創った箱の中身を分析するもので、箱の外があるかもしれないという視座は皆無だった。

 社会のある傾向は、時代の変化と共に、生まれたものとは考えても、それが誰かによって仕組まれたものという発想は、友人には全くなかった。

 これは、私には洗脳や心理学の知識があるが、彼にはなかったというのも、あるのかもしれない。

 所属教会の、カルト的傾向、個人としては善良でも、集団の匿名性に隠れて暴力性を露にする人がいる理由について調べる過程で、洗脳や心理誘導について、私は学んでいった。

 ただ、ここでは取り上げないが、なぜある人は自己の倫理観を最後まで維持し、ある人は獣に堕するのか、ゆたかさんの爬虫類脳の記事を読むまで、ずっと謎だった。

 もっとも、その記事に出会えたのも、人がカルト的傾向に堕していくのはなぜなのかを、私自身が探究していたためだろう。

箱の外を見ようとする複数の要因

 話を戻す。決定的な、しかし、複数の要因が、箱の外を見ようとするかどうかの差を生むのかもしれない。

 ・自分の内的な促しに注意を留めるか否か
 ・外側から与えられる情報を鵜呑みにせず、警戒する
 ・外側から与えられる情報の前提を吟味する姿勢
 ・自分の見方は、どこかの誰かによって都合がいいように操作されたものではないかという予感
 ・権威・肩書・地位・職業・印象・伝聞ではなく、その人本人や事実・法則だけで物事を見る
 ・今の自分の見方を相対化させるための歴史的な視座・開かれた視点
  この開かれた視点には、陰謀・宇宙(人)・古代文明・超能力など多岐にわたる。
  3次元視点以外にも、視点を拡大できるかどうかということだ。

余裕がなくなっていく操作

 思うのだが、「子どもが生まれ、生活の安定のために、貨幣経済の奴隷になる」というのが、一つの仕組みのような気がする。

 こうなると、ゆっくりくつろいで、世界を広い視点で見て、考えるという余裕は、ほとんどの人から失われる。

 私の兄夫婦の方が、社会的には私より安定していて、お金もあるが、心理的余裕はなく、常に何かに追い立てられている。

 言っては悪いが、ラットの回し車のような人生を送っているように映る。

 こちらの動画も参照されたい。

 他方、私は社会的には不安定で、お金もないが、瞑想その他のワークのおかげで、外的状況に振り回されない安定を維持している。

 「人間、死ぬ時は死ぬ」と、肚をくくっている点も、大きな違いかもしれない。

 多分、ネズミの回し車のような生活をしている人には、与えられる情報の前提や外を見るというのは、ほとんど不可能なのかもしれない。

 そしてまた、このことが、本来、祝福であるはずの、子どもの誕生や子育てを、過酷なものにする一因であるように思う。

 事象と自分との間に、隙間を作れるか否か。

 それが、物事の全体像や、自分を相対化する上で、必要なことだと思う。

 しかし、生活に追い立てられ、箱の中が全てと思ってしまうと、そういう発想自体が、浮かばなくなるのではないだろうか。

 支配者にとって都合がいい、システムの電池を再生産し、それが人生だと思い込む。

 映画『マトリックス』で描かれたように、そこから自力で脱出するのは、簡単ではない。


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