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家畜にならないためのススメ

 本記事は、結論があるようでいて、そうではなく、まだ暫定的な見解であることを、最初にお断りしておく。

『PSYCHO-PASS』というアニメ作品

 「人間の心理状態や性格的傾向を計測し、数値化できるようになった」未来世界の日本を舞台とするアニメ作品がある。

 『PSYCHO-PASS』である。

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 “あらゆる心理傾向がすべて記録・管理される中、個人の魂の判定基準となったこの計測値を人々は、「サイコパス(PSYCHO-PASS)」の俗称で呼び習わした。”
(『PSYCHO-PASS サイコパスOFFICIAL PROFILING』角川書店、2013、p,4)

 いわゆる人格類型の「サイコパス」のことではない。

 この精神・心理状態や性格の傾向の表層的な部分をそのまま視覚化したものが「色相」、犯罪傾向を数値化したものが「犯罪係数」と呼ばれている。

 この「犯罪係数」が100を超えると施設送りになるか、あるいは、犯罪を行う潜在的可能性のある人間、「潜在犯」とみなされる。

 この作品内での犯罪者とは、犯罪係数が一定レベルを超えた人間のことを言う。

 だから、異常な暴力行為を行いながらも、犯罪係数が基準値に達していない人間を、執行対象とすることはできない。

 実際、アニメ1・2期では、そんな人間が、システムを脅かす犯罪を企てることがストーリーの主軸となる。

 アニメは、第1期から第3期まであり、各期で主人公と主題、敵は異なる。

 主人公たちは、全員、厚生省公安局刑事課1係の刑事である。

 これは、社会のメンタルヘルスに関わる事案だからである。

『PSYCHO-PASS』第1期に登場する槙島聖護

 前置きが長くなったが、第1期に、槙島聖護(まきしま しょうご)という男が出てくる。

槙島

 彼は、公安局刑事課1係の狡噛慎也(こうがみ しんや)執行官が執拗に追い続ける人間である。

 狡噛はこちら。

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 槙島は、作中の犯罪事件の裏にいるとされ、色相が全く濁らない人間である。

また常に読書をし、言葉を引用し、肉体トレーニングを怠らない人物として描かれる。

 読書と肉体トレーニングをする点は、狡噛慎也と共通している。

 この作品は、小説や漫画という媒体でも出ていて、アニメとは少しずつ、異なっている。
 
 アニメを見た後に、小説や漫画を読んだり、あるいは小説や漫画の後にアニメを見返したりと、常に何かしらの発見が毎回ある作品だと感じている。

槙島聖護のストイックな生活

 小説では、終盤、槙島と狡噛の戦いで、槙島の生活についての簡潔な描写がなされているところがある。

“戦ってみれば、相手がどんな生活をしているのかよくわかる。槙島は、食事は脂肪をとり過ぎないように厳しく制限している。朝起きて顔を洗って、すぐにストレッチとランニング。複数保有している隠れ家には、かなりの割合でトレーニングルームがある。本を読みながら朝食をとって、トレーニング。日によっては、そのあと「仕事」のために出かける。「仕事」から帰ってきたら、またトレーニング。筋肉を疲労させたところで、ゆっくりとリラックスして読書する。ダラダラとした時間が極端に少なく、学び、鍛えることで一日のほとんどが過ぎる生活。”
 (深見真『PSYCHO-PASSサイコパス下』角川文庫、2013、p,322)

 「仕事」という括弧つきのところで察する人もいるだろうが、これは犯罪行為の下準備あるいは実行を示唆している。

 それ以外は、槙島は基本的にトレーニングと食事と読書しかしておらず、見方によっては、かなりストイックな生活を送っている。

 「祈りと労働」の修道士の生活に非常に近いものがあるとも感じる。

 方向は真逆であるが。

槙島が読書やトレーニングをする目的

 槙島が読書したり、体を鍛えたりするのは、最終的には「脳」のためと、小説では説明されている。

 “槙島は自分の記憶力に絶対の自信を持っている。脳は訓練で鍛えることができる。槙島が本を読むのも体を鍛えるのも、最終的には「脳」のためだ。脳の機能は学習によって強化される。これを「シナプス可塑性」という。脳科学が未熟だった頃には、脳の成長は青年期で止まると考えられていたが、実際新しいニューロンは成人期にも生まれる。脳を鍛えることは槙島の「趣味」と言っていい。” (同文庫、p,181)

狡噛が肉体を鍛える理由

 ちなみに、狡噛慎也が肉体を鍛える理由について、上官の常守朱から尋ねられた際、彼自身がこう述べている。

 ドミネーターとは、「携帯型心理診断・鎮圧執行システム」という銃型の計測装置兼武器である。

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 これを向けられた人間の犯罪係数を即時診断し、必要なら麻痺・処分の執行を行うことができる。

 その判断は全てシステムが行うが、引き金を引くのは、あくまでも所持者である刑事である。

 非常に強力な武器であるので、公安局の刑事にしか、所持・使用を許されていない。

 これを使用する文脈で、トレーニングをする理由について、述べている。

  “「ドミネーターほど強力な武器が支給されるのに、ここまで過剰な戦闘訓練が必要なんですか?」
  「必要だ。強くて優れた武器を扱うからこそ、その使い手はより強く、タフでなきゃいけない」
  そう言いながら、狡噛は血が滲んだ自分の拳を見つめる。
  「相手を殺すのはドミネーターじゃなく、この俺の殺意だと(後略)」”
 (深見真『PSYCHO-PASSサイコパス上』角川文庫、2013、p,192)

 「システムの意志に従うだけなのか、それともシステムの意志を認めつつも、人間の意志で決めるのか」というのは、第1期から何度も出て来るテーマで、考察の余地が大いにあるが、これについては機会を改めて考えてみたい。

精神と肉体の調律

 槙島の話に戻ろう。

 槙島聖護という人間は、ある種、凶悪で、狂っていると思うが、生活は非常に規律正しく営まれている。

 別のところで、彼は読書を精神のチューニングツールと捉えているが、肉体トレーニングは肉体の調律と言えるだろう。

 “本はね、ただ文字を読むんじゃない。自分の感覚を調整するためのツールでもある” (文庫下巻p,114)
 “調子が悪いときに、本の内容が入ってこないことがある。そういうときは、何が読書の邪魔をしているか考える。調子が悪いときでも、すらすらと内容が入ってくる本もある。なぜそうなるかを考える。――精神的な調律、チューニングみたいなものかな。調律する際、大事なのは紙に指で触れている感覚や、本をパラパラとめくったとき瞬間的に脳の神経を刺激するものだ” (文庫下巻p,114)

 調律は絶えず行う必要がある。

 だから、槙島は、常に読書とトレーニングを行うのだ。

人間が人間らしくあるには、規律が必要ではないか?

 『PSYCHO-PASS』の世界に限らず、易きに流れようと思えば、いくらでも楽な方向に流れるものに、現代社会は満ちている。

 そこで、なおも、人間が人間らしくあるためには、何らかの規律・戒律を必要とするように思われる。

 言語化するかはともかく、それを自分で作り、それによって、自分の生活を営む姿勢が欠かせない。

 そうでなければ、動物、あるいはそれ以下の生に堕するばかりではないだろうか。

 人間は、ただ、そのままで、自動的に人間になるのではない。

 スペインの思想家ミゲール・デ・ウナムーノの『生の悲劇的感情』にこうある。

“人間以上のものたらんと欲するときにだけ、人間は本来的な人間となる”

 これを引用して、執行草舟は『超葉隠論』でこう述べている。

“もしも「人間でいい」と思ったらすべてが日常生活になってしまって、優雅からは遠のいてしまう。” (執行草舟『超葉隠論』実業之日本社、2021、p,307)

 今の安全・安心・快楽・幸福・成功に余念のない人には、決して理解できないだろう。

 ムーンショット計画で実現されるだろう社会を歓迎する人間にも理解できないかもしれない。

ムーンショット計画に抗うには?(現時点での見解)

 2月に、ムーンショット計画について記事を書いた。

 この時点ではわかっていなかったことや理解不足だったことがあり、一部は外れていたり、間違っているものもある。

 また、自分で読んで思い出したが、『PSYCHO-PASS』に触れている。

 内閣府の「ムーンショット計画」のページは、時々行くと、情報が変わっていたり、追加されていたりする。

 もちろん、「国民に知られずに行っている」点は、変わらずだ。

 その「ムーンショット目標1」にはこうある。

“2050年までに、人が身体、脳、空間、時間の制約から解放された社会を実現”

 この計画を実現させないのがベストなのは言うまでもないが、それでも、こういう方向がある程度、不可避であるならば、今からできることを考え、実行していくしかない。

 その一つは、自分の脳と体のリンクを結び直すことではないかと思う。

 別の記事で触れたように、現代人は、前頭葉優位状態になるように仕向けられ、脳と体が分離するようなことを、ほとんどの人が無自覚・無意識に行っている。

 イヤホンやヘッドホンで音楽を聞きながら運動をするなど、「脳と心の分離」を促進する最たるものである。

 これは、ながら行動で、一見「効率的」に見えるが、あまり体にいいことではない。

 このことを、山田貢司さんの記事やtweetで知って以来、なるべく、BGMを聞かず、音楽を聞く時は、「音楽を聞く」ことに集中する状況を作るようにしたし、元々そんなにやっていなかった「ながら行動」をさらに減らすように努めている。

 また、「脳と体のリンク」を復活させるために、山田さんのθ波誘導音源を聞いたり、ブログにある脳トレをやったりしている。

 それと並行して、自分の体に合った、無理のない範囲で、かつ、動ける体になるような運動も日常的に行うようにしている。

 そして、読書である。

 何を読んだらよいかというのは、『PSYCHO-PASS』の作中で言及・引用されている本を最後に列挙するので、参考にしてほしい。

 何かを得ようとするよりも、純粋に、読書という営み・経験を味わってほしい。

 そして、むしろ、今の自分には「わからない」本を読むことをお勧めする。

 そうでなければ、今の自分の限界は広がらない。

あなたは、プラグにつながれたいか?

 家畜やプラグをつながれた奴隷――今も、ある種、奴隷のような人々がいるが――になりたくなければ、自分の肉体・精神の健康は自分で面倒を見る態度が欠かせない。

 槙島は、作中で、生殺与奪の権利をすべてシステムに握られているような人間は、人間ではないと述べている。

 “生殺与奪の権利をすべてシステムに握られているような人間は、人間ではない……家畜だ。どんなに表面を取り繕っても、畜産業者が家畜を友と認めることはない。不思議だ。この退屈な社会で家畜扱いされて、どうして何も壊さずにいられる? この世界に永遠などない。あるのは、あがなう者の魂の輝きだけだ” (下巻文庫p,292)

 社会にも他人も無関心で、与えられた「問題」の「解決」を見つけるのが「意識他界」と勘違いした人々を周りに見る度に、槙島のこの言葉をどうしても思い出してしまう。

 「彼らと自分は違う」と思ったところで、実際に、何かをしていなければ、ただの自己欺瞞でしかない。

 目の前の現象についての情報を追いかけるより、電子機器から隔絶された場所で、読書やトレーニングに励む孤独な日々の方が、もしかすると、長い目で見ると、「最も生産的かつ人間的な生活」かもしれない。

 それを実現するのは、容易なことではないだろうが。

『PSYCHO-PASS』で言及されている本

 システムに、身体や精神の決定権を握られないように努めるだけでなく、「今の視座」を相対化するためにこそ、歴史や他の文化を学ぶ意義がある。

 その最も有用で、歯ごたえのある方法であり、精神の調律にもなるのが読書という営みだ。

 『PSYCHO-PASS サイコパスOFFICIAL PROFILING』より、この作品で触れられた古典のタイトルを列挙する。

ウィリアム・ギブスン『記憶屋ジョニー』『ニューロマンサー』『カウント・ゼロ』『モナリザ・オーヴァドライブ』
ニーチェ『善悪の彼岸』
ジョージ・オーウェル『1984』
ルソー『人間不平等起源論』
寺山修司『さらば、映画よ』
シェイクスピア『十二夜』『マクベス』『タイタス・アンドロニカス』
キルケゴール『死にいたる病』
ドストエフスキー『悪霊』
デカルト『哲学原理』
コンラッド『闇の奥』
マルセル・プルースト『失われた時を求めて』
スタンダール『赤と黒』
岩上安身『あらかじめ裏切られた革命』
フィリップ・K・ディック『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』
パスカル『パンセ』
オルテガ『大衆の反逆』
ウルリッヒ・ベック『危険社会』
サド『悪徳の栄え』
ジョナサン・スウィフト『ガリヴァー旅行記』
ギャビン・ライアル『深夜プラス1』
マックス・ウェーバー『支配の諸類型』
ミシェル・フーコー『監獄の誕生』

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