見出し画像

引用で考える その4:心と根源意識の違い

 本の引用の4回目です。

 どの本を選び、どの言葉を引用するかに私の解釈は入りますが、できる限り、引用された言葉だけで、理解できるように配慮します。

 個々の言葉を読んで、気になったことがあれば、本を読む、関心を持って調べてみる、考えてみる、そうしたきっかけにしてくだされば幸いです。

 引用された言葉を、声に出して読むのも良いかもしれません。

 もしかするとそこには、自分を鼓舞し、萎えた気持ちを奮い立たせ、勇気づける言葉があるかもしれません。

 引用された言葉を黙読するのと、声に出して読むのは、また違った趣があります。


 今回は、デーヴィッド・アイク『ムーンマトリックス1』(ヒカルランド、2019)から引用します。

 原書は、2010年にイギリスで発行された『人類よ、起ち上がれ――眠れる獅子が目覚めるとき』(Human Race Get Off Your Knees: The Lion Sleeps No More)という、約700ページの大著です。

 日本語では全10巻の文庫本で出版され、後に全5巻の新装版が出されました。

 今回、私が引用するのは、この新装版の第1巻からです。


“心(マインド)が「考えること(シンキング)」を介して通信する一方、根源意識は「知ること(ノウイング)」(気付き)を通じて我々に語りかける。「直感」とも言う。”(p,66)
“誰しもある程度は直感を持っている。考えて得られるものではなく、感じて得られるもの、あるいは単に「知る」ことである。知っている、けれども、なぜ知っているのか分からないという感覚である。「その人に会わないといけないと思った」「ここに行かなければ」「そこにいなければ」という衝動である。こうして何かを知ったり、何かをするように急き立てられても、それは言葉(心 マインド)で説明できるものではなく、どこか奥深いところから来ている。それが根源意識だ。”(p,66)

[「何となく、この人がいいなと感じた」とか「何となく、ここには行かない方がいいと感じた」という「何となく」も直感であり、根源意識の声である。これは、本人にさえ、言葉で説明できるものではないので、ソースを求めるなど、愚かなことだ。ソースを求めるのは、心(マインド)の働きである。あるいは、根源意識につながっている人であれば、他人の直感が、自分がつながっているのと同じ源から来ていることがわかるので、敢えてソースを詮索することはしないかもしれない。
 「虫の知らせ」とか「不吉な予感」とか「今日は何もかもうまくいきそうだという気がする」というのも、根源意識の声とみなすことができる。我々は、自分で思っている以上に、根源意識の声を聞いている。ただ、大半の人は、それに充分な注意を払わず、現実認識の声に屈してしまう。]

“現実認識を心(マインド)が占領していると、直感への通路が閉ざされてしまう。我々が感じるがままに従うならば、もはや心(マインド)は我々の支配人でいることができず、コントロール権を失ってしまう。もちろん、心(マインド)は優位性を守ろうと闘うだろう。”(p,66)

[「現実認識」とは何かというのが、次の引用に書かれている。]

“直感的に何かが分かったり、何かしなければという強い衝動に駆られても、こんなふうに頭の中で自問して考え、打ち消してしまったことがないだろうか?
 「そんなことできない」
 「無理だ」
 「家族は何て言うだろう? 近所の人は、職場の人は?」
 「無責任だ」
 「役割がある」
 「責務がある」
 「昇進はどうなる?」
 「人を傷つけるだろ?」
 「自分自身だって傷つけるはずだ」
 「調子に乗っちゃいけない」
 「気まぐれで行動しちゃいけない」
 「論理的でない」
 そう、論理だ。理性だ。だが、「理性」とは何だ?
 辞書の定義を見ると傑作だ。「論理的、合理的、分析的な思考をする能力。知性。良い判断。健全な感覚。正常な精神状態。正気」とある。”
(p,66-67)

[直感がやってきた時、「ふと」アイデアがやってきたり、何かをしたくなった時に、こうした現実認識の声に耳を貸してしまうと、直感への通路は閉ざされる。同調圧力の強い日本であれば、三番目の「家族は何て言うだろう? 近所の人は、職場の人は?」がよく聞こえる声かもしれない。こういう時は荒っぽいが、四の五の言わず、直感以外の声を全力で無視するのが一つの方法だ。現実認識の声に従っていては、いつまで経っても、直感への通路は開かず、根源意識とつながる道も開けない。何も大それたことをしろと言っているのではない。ちょっと一休みしている時にやってきたアイデアをメモする、仕事を中断して自然の中に行けという声に身を委ねる、目に留まった本を手に取ってみる、目の合った人に話しかけてみる、そういったことだ。]


“この現実を心(マインド)が支配しているということは、何もかも心(マインド)の視点から定義されるという意味である。(中略)もし心(マインド)が、知るべきことのごく一部しか知らなければ(まさにそうなのだが)どうなる? 愚か者の「良い判断。健全な感覚」を採用し、疑問もなく暮らし続けるだろうか。そんなバカなと思うだろうが、70億人の大部分は毎日そうしている。”(p,67-68)

[心(マインド)に支配された人間ばかりなら、操る側からすると、こんなに操作しやすい人々はいない。逆に、直感への通路が開かれた人は、操作する側からすると、イレギュラーな動きをするので、予測がつきにくい。パソコン画面に向かって真面目に仕事をしていた人が、窓の外に好みの人を見つけて、即座に席を立って声をかけにいく。こんな人は、心(マインド)人間からしたら、考えられない。]


“晴れた夏の朝に窓の外を眺める。そうすると、家族と庭に出てティータイムを楽しむとか、デッキチェアを引っぱり出して日光浴するのが「良い判断。健全な感覚」と思うだろう。だが、もしも、もっと幅広く状況が把握できるなら、例えばハリケーンが接近していることを知っているなら、ついさっき「良い判断。健全な感覚」と思えたものが、自殺行為になりかねないことに気付く。
 心(マインド)と根源意識とでは、これぐらい大きな認識レベルの隔たりがある。”(p,68)

[これぐらい大きな認識レベルの隔たりがあるにもかかわらず、大半の人間は心(マインド)で物事を判断するように操られ、仕向けられている。もっと幅広く状況を把握できたら、支配者に都合のいい行動は取らないからだ。
 今で言えば、心(マインド)では、夏日でも、マスクをして外出するのが「良い判断。健全な感覚」となるのだろう。だが、もっと広く状況を把握できるならば、それは熱中症リスクを上げるという、一種の自殺行為になりかねないことに気付く。
 熱中症リスクの予見される日であっても、厚着でマスク着用の人は、心(マインド)にあまりに支配されているのかもしれない。枠珍についても同様のことが見受けられないだろうか。]


“根源意識に向けて心(マインド)を開けば、いかに心(マインド)が狭く限られたものだったかと気付く。”(p,68)

[「根源意識に向けて心(マインド)を開く」とは、具体的には、直感の声に従ってみる、何となく「この人に会ってみたい」「これをやろう」「ここには行かない方がいい」というサインに従ってみる、といったことである。白川神道では、「ふと思うは神心」という言葉がある。「ふと思った」ことを即座にやってみる。]

“閉鎖回路として働き、五感の現実だけを「意識」的に知覚している状態の心(マインド)は、愚かだと言ってもよい。「良い判断。健全な感覚」の裁定を心(マインド)に任せることこそ正気と言えないのが分かるだろう。”(p,68)

[こうした愚かさを、我々は日々、目にしていないだろうか。我々は、こうした愚かさと無縁でいられるだろうか。]


“私は、「理性」の定義の3番目にある「正常な精神状態。正気」が好きだ。何もかもが心(マインド)の眩惑的な観点から判断・選別(フィルター)される。だから心(マインド)の理解力を超えたことを言い出す人がいれば、この定義からして「正常な精神状態。正気」に該当しない狂人ということになる。だから私は、狂人と言われるのが嬉しいと何度も言っている。それが私の正気さを証明するからだ。関係各位に感謝申し上げる。”(p,68-69)

[アイクのこういうユーモアは大事だ。567や枠珍、あるいはそれ以外の、世の中で起きているおかしなことについて、周りに伝えて、狂人扱いされた人が少なくないだろう。私もそうだ。「あなたが狂人だというのは、人々の心(マインド)が言っていることだ。その心(マインド)の裁定は信頼できるものだろうか」、そうアイクは問うのである。
 ちなみに、アイクは1990年代に神秘体験をした。当時の彼は、英国緑の党のスポークスマンだった。その体験を話すようになると、全国から嘲笑されたという。しかし、そのことが、彼と根源意識をつなげることとなった。そういうきつい体験をする必要は全くないが、世の人の言う「正気」と、根源意識の「正気」が全く別物であることがわかる、強烈な話とは言える。]


引用から考える その3


( ´∀`)サポート本当にありがとうございます!!😭😭😭🥰🥰🥰 (  ・ ∀ ・)ご恩返しするためにも、今後も一生懸命頑張ります!!😊😊😊