ゼロの自由~学び続けること~

その人が、その人だということを存在たらしめるものは何だろうか。知識基板社会とは言うけれど、だからといって、みんなが博覧強記になれるのか、それは一種の理想状態であって、知識を身に着けることがすべてではないはずである。知識を詰め込むだけなら、機械が得意とするかもしれない。

例えばプログラミング、これから小学校や中学校でもプログラミング教育が必修化し、ある程度のコードが書けるようになるように指導されていく。しかし最終的には、「コンピュータに使われない人間になること」を目指すべきではないだろうか。

機械の使い方を学ぶことは第一段階であり、その次の段階がある。それは、機械の仕組みを根本的に理解することだろう。どんな機械だって原理は存在するし、原理なしに機械が動くことはない。きわめて論理的に構築された代物である。

しかし、プログラミング教育は、その表層を触っていることに過ぎない。プログラムを作る思考は、論理学とよく似ている。その原理を知ったものこそ、次の原理を生み出すことができるのだ。

よく、ゼロからⅠを生み出すこと、といわれるが、論理学的には、ゼロからⅠを生み出すことは困難である。いずれプログラミングもAIにとって代わられるかもしれないし、今学んでいるそのプログラムが5年後にはアップデートされて、大幅に変わっているかもしれない。

しかし、原理はれっきとして存在する。科学技術の進化は、古いものを見ることで、手に取るように感じとることができる。10年前のコンピュータは、SSDという概念も最先端で、20GBがコンピュータの最大容量だった時もあった。もっとさかのぼれば、インターネットが使えるという環境もなく、ポケベルやショルダーホンで通話していたり、そんな時代もあっただろう。

結局人間は、自発的に生み出す自由こそ、機械に勝る唯一の希望であると考えている。機械学習も、一見自発的に生み出しているようにみえるが、人間がデータセットを与えない限り、基本的には何も動かない。スイッチを切られた機械が何もできないのとよく似ている。

Ⅰと0は二進法の象徴であるが、機械は、Ⅰから何かを作り出すのは、驚くほどの効率でやってくれるし、人間がかなわない力を生み出してしまう。例えばクレーンである。クレーンは高層ビルを建ててくれる。人間は逆に、0のほうが得意である。きっかけを与えたり、興味がある学問を、手当たり次第に散策したりすることで、思わぬ発見があるかもしれない。それは、限りなく0から1が生み出される瞬間に近いであろう。あるいは、機械に与えるための重要な制御を担っているともいえるだろう。

ゼロの自由、それは、機械にかなわない、人間だけの自由である。ゼロを知ることで、Ⅰに向かおうとする。無知を知ることが最大の知であると、過去の偉人が言ったかもしれないが、無知を知る自由が、人間の自由を生み出すと、私は思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?