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石田検事怪死と大正の終焉

12月25日は大正天皇が亡くなり、昭和が始まった日。
私も知らなかったのですが、昭和元年はこんな年の瀬に始まったのですね。
そして大正浪漫と呼ばれ、たった十五年しかないけれど、関連資料本が明治・昭和より分厚い大正時代。
そんな大正末期から昭和初期には大きな闇が潜んでおりまして、今回はそこに触れてみたいと思います。

まず特筆すべきは、昭和元年である西暦1926年は、あの関東大震災から3年しか経っていない事。
先に書いた記事で、神奈川の震災について触れましたが、展示されていた資料、震災日誌は昭和に入ってから纏められたものが殆どでした。
当時は現代より情報媒体が少ないですし、相当の混乱もあったでしょうから、たったの3年で持ちこたえられるとは思えません。
ましてやそんな時に改元したのですから、大正末期に起きた災禍をまとめ上げる事が昭和を生きる者の急務だったのかもしれません。
更には、震災直前には、軍部が台頭し、戒厳令が敷かれました。
そう、震災の後には、軍部による治安維持が始まりました。
この流れが大正末期から昭和初期にかけての闇を生み出す要因となります。
昭和に改元する約2か月前の大正15年10月30日。
東海道線蒲田駅近くの高架線の橋の下から、水深60センチほどの浅瀬に浮かぶ、男性の遺体が発見されました。
この男性はコートを身に着けネクタイも締め、洋傘を持ったきちんとした身なりの紳士であったという事です。
そして胸ポケットに残されていた名刺から東京地方裁判所の次席石田検事である事がわかります。
これが「石田検事怪死」事件です。
これは通称である事が多く、ネット等で検索すると「陸軍機密費横領問題」
でヒットします。
石田検事の死には、当時の政治背景が色濃く反映されておりまして、大正末期の政権は若槻禮次郎内閣です。
そして次期政権を狙っていたのが、田中義一陸軍大将でした。
前記の通り田中は、軍部出身であり、政界入りには相当の金が必要と考えました。
そこで300万円を準備したのですが、これは現代に換算すると10億円という大金。とても個人で準備できる金額ではありません。
そこで、この300万円を田中は、陸軍機密費から横領していたのでは、という疑惑が持ち上がりました。
それを調べていたのが、石田検事だったという訳です。
ですから石田検事がこの問題に携わっていたために殺されてしまったという可能性は充分有りうるわけですが、にも関わらず検事の死は事故とみなされ、遺体はその日の内に火葬されてしまいました。
そして、一連の陸軍機密費横領を疑われていた田中も、12月27日に不起訴処分となりました。
そして翌年昭和2年の4月に、田中は昭和に入ってから2人目の内閣総理大臣に就任します。

しかし、田中内閣が続いたのは約2年余り。1931年(昭和6年)には、若槻が2たび総理大臣に返り咲いています。
1931年は9月に満州事変が起きた年、その後の昭和恐慌や、1932年の五一五事件、そして10年後の二二六事変。
これらの事変に揉まれ、葬られたしまった石田検事怪死事件ですが、じつは昭和の闇に繋がる序章だったのではないでしょうか。

そしてこれらの闇は、1945年以降、つまり戦後にも続いていきます。
1949年7月6日、国鉄の下山総裁の轢死体が発見されたあまりにも有名な
戦後最大のミステリーといわれる『下山事件』。
この事件は、上記の『石田検事怪死事件』がモデルになったと言われています。
また同年7月15日には『三鷹事件』、
8月17日には『松川事件』
と、同様に国鉄にまつわる事件が起きており、これらは全て未解決で、
『国鉄3大ミステリー』と呼ばれています。


松川事件

何れもこれらが、大正から昭和に跨る『石田検事怪死』事件から端を発しているのは驚きでしたが、この事件から国鉄の三大事件まで24年しか経っていないので、黒幕が同一人物であった、というのは、十分考えられるのです!!

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