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【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】哀しみの終わる時(6)

それから4日後、神崎に言われたように、杉本と母親は、S大学附属病院の精神科外来の受付前にいた。医者に認知症チェックをしてもらえばどうかという神崎の誘いに、意外にも母親がこう言ったからだ。

「せっかく武史のお友だちが言ってくださるんだからねぇ、断るのもなんだからねぇ」

それを受けて、その日、もの忘れ外来を受診した後、神崎はそのまま杉本の家に寄る運びとなった。

神崎はこの日の予約を入れてくれたばかりか、杉本親子が到着する前に、担当医およびメディカル・ソーシャルワーカーなる専門職にネゴってくれていた。つまり、杉本家の状況を伝え、母子を物理的に引き離さないと危険であることを認識させ、診察した上で、可能な限り早期の入院ができるようにサポートしてほしいと念押ししていたのである。

診察室では、予想通り、母の認知症が確定された。本人には、前頭葉の一部に萎縮が見られるので、予防的な意味合いで薬を出しておく旨の所見と、一ヶ月後に再度の受診をするよう指示が告げられた。

「おふくろ、よかったじゃないか、早めにわかって」

杉本の言葉に、母は頼りなさげにつぶやいた。

「いやだねぇ。わたしもそんな歳になっちゃったんだねぇ」
「オレも、おふくろが本当に認知症なんかになっちゃったら困るからさ、ちゃんと薬飲もうよね」

しばらくすると、神崎が医者と話し終えて診察室を出てきた。

「お母さん、お疲れ様でした。相談員が息子さんと少しだけお話したいと言ってますから、私とここで待っていましょう」

そういうと神崎は、私の耳元でささやいた。

「この数カ月の大変だったことを、はじめて私に話してくれた時のように訴えてください。それで一気に入院の準備に進んでいきます。キーワードは、『もう限界』と『実の母を憎悪する自分が情けない』です」

そう言うや、神崎は杉本の母をかばうように手を添えながらロビーのほうへ歩いていった。

神崎の言うように、杉本が事実をそのまま伝えると、相談員は深刻な面持ちで言った。

「本当におつらかったですね。来週の月曜日13時、ご都合はつきますか? 申し訳ないですが、最短で月曜の午後になります。入院の手続きですが…」

こんな感じでとんとん拍子に事は進んでいったのだ。

杉本の家に着くと、何も知らない母がお菓子とお茶で神崎をもてなした。その間に、神崎は杉本に言う。

「思いの外、早く入院できそうですね。それまでに、介護認定と限度額認定、それと定期預金の口座振替をやってしまいましょう。お母さんとは、この後、お話をしながらその方向に持っていきますので」

杉本は、もう、ただ頷くしかなかった。あまりの急展開にジェットコースターか何かに乗ってでもいるような感覚だった。ものの10分くらい雑談をしてから、神崎は母親へのカウンセリングを開始した。

「それではお母さん。これから認知症を予防するための簡単なイメージトレーニングをやらせてもらいますね。まず、ゆ~っくり深呼吸して、リラックスした状態になってもらいます。ご自分のペースでゆっくりと、はい、口から吐いてぇ、鼻から吸ってぇ。はい、そうです。いいですよぉ。しばらく続けてください。軽~く目も閉じましょうか。はい、そうです。リラックスしてぇ。後頭部の20センチくらい上のあたりにちっちゃなミカンがフワフワ浮いているような光景を思い浮かべてみましょう。は~い、どうですかぁ~」

杉本の母親は、従順に神崎の言うがままに動いていた。杉本は不思議な気持ちで、固唾を飲みながら母の様子を見守っている。

「それではお母さん。いや、杉本紀子さん。いまから私がいくつか質問をしますから、なるべく正直に、思った通りに言葉にしてみてくださいねぇ。よろしければ、ちょっとだけ、首を縦にふってみてくださ~い」

素直に頷く母。

「それでは、紀子さん。紀子さんが生まれてから今日までのことをゆっくりと振り返ってみましょう。いろ~んなことがあったと思います。楽しかったこと、つらかったこと、たぁ~っくさん、いろんなことがあったと思います。よ~く思い出してみてください」

神崎は杉本の母親の両手に自分のそれを軽く当てながら、一分ほど沈黙していた。

「どうでしょう。紀子さんの人生にあったいろいろなことが思い浮かんできたでしょうか。それでは、右手を軽く上げてみてください」

神崎が母親の右手をそっと持ち上げた。

「いいですかぁ。親指から小指までぜんぶで5本ありますよねぇ。いまから、紀子さんの人生に大きな影響を与えた方を5人挙げてもらいますよぉ。まずはじめに、これまで生きてきて、紀子さんがい~っちばん感謝している人、それはどなたですかぁ~。こうしてぇ、いったん指をたたんでこぶしを作ってぇ。はい。どなたにいちばん感謝していますかぁ。その人がこの親指ですよぉ」

神崎が親指一本だけを立たせた状態にすると、眉間にしわを寄せるようにして俯いていた母親がボソッと口を開く。

「おかあさん…」
「はい。紀子さんの、実のお母さんですねぇ。そうだったら頷いてくださぁい」

母親が小さくうなづいた。

「それでは、紀子さん。目を閉じたままでいいですからぁ、この親指をお母さんだと思ってくださ~い」

神崎は、親指を軽くツンツンと叩いてから、そっと握った。

「どうしておかあさんに感謝しているのか。どんなふうに感謝しているのか。目を閉じたままでいいですから、この親指をお母さんだと思って、感謝の言葉を素直に言ってみてくださぁい」

杉本は母の歴史を紐解くような思いで母の言葉に耳を傾けていた。が、神崎が、親指・人差し指に続いて中指を立てさせ、三番目に感謝している人物を問うたとき、目を見張った。

母の口をついて出た言葉。それがまぎれもなく「た・け・し」だったからだ。母方の祖母、武史の父に次いでの三番目である。

「武史さん・・・。息子さんですねぇ。それでは、この中指が武史さんですよぉ。目を閉じたままでいいですから、この武史さんに感謝の言葉を伝えてあげてくださ~い」

杉本が凝視する中、母は言った。

「武史。お母さん、ちっちゃい頃から好き嫌いが多かったからねぇ。身体も弱かったから、なかなか子宝に恵まれなくってねぇ。ビタミン注射を打ってもらいながら、やっとのことで武史が生まれてきてくれたんだよねぇ。そのせいか、武史はよく病気してねぇ。小学校入る前くらいまではもう、ほんと大変だったんだ。

それに、お母さんが身体弱かったから兄弟もできなくて、「どうして僕にはお兄ちゃんやお姉ちゃん、弟や妹がいないの」って、よぉく訊かれたよね。淋しかったんだろうねぇ。

それでも、武史が生まれてきてくれたから、お母さんは本当にうれしくてうれしくてね。今日までがんばって生きてこられたと思うんだよねぇ。お父さんがお酒飲みすぎて身体壊して死んじゃってねぇ。あん時からずぅ~と、武史がお母さんを支えてきてくれたんだもんねぇ。結婚もしたかったろうにねぇ。ほんと、よくできた子だって、お母さんの自慢のひとり息子だったんだよねぇ、武史は。

武史のおかげで、お母さん、生きててよかったって思えるんだよねぇ。だからねぇ。お母さんがどうにかなっちゃうとね、武史はひとりぼっちだから、ぜぇんぶ武史が面倒かぶることになっちゃうから、それだけが、お母さん、心配なんだよねぇ」

杉本はタオルで顔を覆いながら泣いている・・・。

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