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【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】認知症介護の迷宮(6)

数日後、悠子は神崎とともに区役所を訪れた。住民課で義母の世帯を分離するのと、後期高齢者保健課と介護保険課で、限度額認定の申請をするためだ。義母の所得状況を提出する必要があったため、税務課にもまわり、ものの一時間で手続きを済ませることができた。数日で認定証が届くらしい。そうすれば、今後、医療費も介護費も上限1万5千円で済むということだ。ありがたい話だ。

帰り道、悠子は神崎を誘って喫茶店に入った。

「どうです? お母さまが入院されてから、ご自分のリズムを取り戻せましたか?」
「ええ。少しずつですけど。あれから胃腸科で検査したんですけど、胃がボロボロの状態だったみたいで…」
「そうですか。でも、少しずつでも本来のあなたに戻っていけるよう祈ってますんで」
「ありがとうございます。神崎さんのおかげです」
「いいえ、とんでもない。私はこれが仕事ですから」

どちらからともなく、ふたりは顔を見合わせて微笑んだ。

「ご主人とメールでやりとりしてるんですが、聞かれてますか?」
「あっ、はい。退院後のことですよね。かなり無理な条件を出して、神崎さんに候補物件を探していただいてるって」
「それはよかったです。ご夫婦で何でも情報を共有して、おふたりともが納得して話を進めていくこと。それがいまの悠子さんにとって、いちばん重要なことだと思いますよ」
「ええ。主人が昔に戻ったみたいで、なんか不思議な感じがしているんですよねぇ。何かこう丸くなったというか…」
「角がなくなった?」
「はい。本当にそうなんです。もう怖いくらい」
「いいことです。ご主人は小さい頃にお父さまを亡くされて、ずっとお母さまに手塩にかけてこられたとおっしゃっていました。今回の件は、ご主人も相当おつらい決断だったはずです。そこを悠子さんがわかって差しあげて、ご主人はご主人で、悠子さんのこれまでの苦労をねぎらってあげる。そんな関係で、この先もずっとタッグチームを組んでいってくださいね」

「ありがとうございます。神崎さんって…」
「?」
「いえ、そのぉ…」
「何でしょう? はっきり言ってください」
「神崎さんのお話を聞いていると、なんだか金八先生の授業みたいな気がして…」
「ですかねぇ。実は、何十人もの方から同じことを言われてきました。私自身は、金八先生とやらを見たこともないんですけどね」
「やっぱり! そうですか。でもこれ、褒め言葉ですからお気を悪くしないでくださいね」
「はい、もちろん。個人的に、武田鉄矢さんはちょっと…ですが。褒めていただいてうれしいです、ホント」

ふたりの笑い声が響く。しばらく前は、自分がこんなふうに楽しくおしゃべりできるようになるとはまったく考えてもみなかった。悠子はニコニコしながらにこにこしながら紅茶をすする神崎をそっと眺めた。
 
別れ際に手渡された封筒を開くと、そこには、夫が提示したと思われる条件に適う10数個の候補施設が記されていた。悠子と会う前に、夫にもメールをしてくれたという。夫が出した条件は、「予算は月額15万円まで」・「エリアは、経堂から最西で京王線の多摩センターまで」・「日中、部屋で一人きりになることのない環境」の3つだった。

神崎メモには、有料老人ホーム、グループホーム、ケアハウス、老人保健施設の4分類で、全部で14物件の情報が記されていた。

さらに、「仮に月額10万円までで抑えるとしたら」という前提付きで、老人ホーム・グループホームであれば中央線の奥多摩まで範囲を広げれば可能。ケアハウスだと低所得者や生活保護受給者が優先されるためかなり困難。老人保健施設ならば都内で見つけることが可能・・・・・・と補足されている。

最近は極力早く帰ってきてくれる夫の帰宅を待って、夫婦のミーティングが始まった。基本は老人保健施設という夫のスタンスに、悠子も賛同した。テーマが何であれ、夫の晩酌をしながら、こうして夫婦ふたりで協議する時間が、悠子には何よりも懐かしく、そしてうれしかった。

「明日、神崎さんにメールしておくからさ。月が変わったら、土日にいくつかの物件を見て回ろうかと思ってるんだ。キミも来てくれるよね」
「はい、もちろん」
「終のすみかって言うのかな。こういうのも何かいろいろトラブルとかあるみたいだよね。だから、神崎さんにもついて来てもらえたらって考えてんだけど…どうかな?」
「そうね。そのほうが安心だよね。わたしたちだけじゃ、どこをどう見ていいのかもわからないといけないしね」
「だな。それも明日頼んでおくよ」

夫に勧められ、久々に赤ワインをちょっとだけ飲んだ。義母には済まない気持ちもあるが、悠子は「いま自分は、この人と一緒に生活をしているのだ」という実感に包まれていた。夫婦っていいな。そんなことを考えながら、夫の横顔を覗きこんだ。

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