【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】認知症介護の迷宮(2)
神崎眞。ベテランの社会福祉士である。小さいながらも、横浜のみなとみらいで事務所を構えている。数年前からは、15年間の相談対応実績に基づいて、シニア援助技術を体系化し、後進の指導育成にも力を入れている。
百寿コンシェルジュ。これが、神崎のカリキュラムを修了した者たちに授与される認定資格である。シニアがエンディングを迎えるまでに遭遇する確率の高いすべてのリスクについて、年中無休で相談を受けたり、その延長線上で実務の代行をしたり。従来からの認知症リスクに加え、新型コロナの感染蔓延に伴って、富裕層を中心に元気なうちからそなえておこうという機運が高まってきており、かなりの忙しさである。
さて、悠子の夫と名乗る男性が神崎のもとに電話をしてきたのは、それから1週間後のことだった。
「一度お目にかかって話を聞いてもらえますか?」
「是非に。私もわたしも、その後どうなったのか、気にかけておりましたので」
みなとみらいにある事務所の面談室があいにく塞がっていたので、同じビルに入っているホテルのカフェで2人は対峙した。
「サイトを拝見しました。今の時代、ニーズがありそうですよね」
「たしかにそうなのでしょうが、みなさん、初動が遅いんですよね。その結果、ちょっと厄介なことになってしまうケースが多いですね」
「そうですか…。早速、本題なのですが、実はこの土日に、母とふたりで過ごす時間があったのですが…」
「親孝行されたのですね。それは何よりです」
「はぁ、しかし…」 「しかし?」
悠子の夫は、コップの水を半分ほど飲んでから、口はばったそうに話を続けた。
「そのぉ。妻の言っていることがやっとわかったと言うか…。2日続けてトイレの後始末をやりました。あんなことは、人生ではじめてです」
「鏡餅…」
悠子の夫がハッとした表情に変わる。
「奥様に電話で聴きました」
「はぁ、そうなんです」
「ああいうのは、実際にやってみるとキツいですよねぇ。情けないというかやるせないというか。まして、昔はシャキッとしていた自分の親のイメージがありますからね…」
「はい。おっしゃるとおりで…。妻があれを毎日やっていたのかと思うと心苦しくて」
「でも、奥様のつらさをご理解いただけたのはよかったと思いますよ」
「はぁ。なかなか仕事に切れ目がなくて、家のことはすべて妻任せできたものですから」
「いや、どこの家庭も、多かれ少なかれ一緒ではないでしょうか」
「はぁ。で、妻と話しまして、できればサポートしていただければと思いまして…」
「そうでしたか。ありがとうございます。お電話で伺ったかぎり、もうご自宅でお母さまを見ていくことは無理だと思います」
「はい。私も同感です。実は、トイレでの粗相について母を叱ったところ大騒ぎになりまして…。気でも違ったように騒ぎまくる母の様子を見て、これはもう昔の母ではないんだなと…」
「そうでしたか。おつらいですよねぇ」
「こんなことを言ってはいけないのでしょうけど、母を殺めたいという気持ちさえ湧き起こってくる自分にびっくりしまして…。そんな気持ちをどうコントロールしていいものか。いまや妻だけでなく、私も限界なのです。妻に比べれば、ほんの少ししか大変な目に遭っていないのですけどね…」
そこまで話して、夫は声を詰まらせた。老親の認知症問題で、いわゆる問題行動を伴う場合、大の男が涙する場面は決して少なくない。
彼が落ち着くのを見計らって、神崎が口を切る。
「いや、正直にお気持ちを教えていただけてよかったです。私でよろしければ、できるかぎりのことはさせていただきます」
「ありがとうございます。助かります」
「奥様から聞かれているかもしれませんが、やはり一刻も早く入院するのがいいと思っています。ただ、おそらく、最大でも3ヶ月で退院させられてしまうので、その後をどうするのか。ここはおふたりでよく話し合ってほしいところです。私の経験からすると、認知症あるいはそれに準ずる症状が出てしまった場合には、ご自宅で療養するというのは困難だと思っています。認知症でなくても、排泄のコントロールができないようなら、絶対に自宅はやめるべきとまで思っています。そうなると、通常は、グループホームとか老人ホームとかに入っていただくというのが多いですね。その場合には、経済的なこと、エリア的なこと等も含め、希望条件に合致する物件をご紹介することも可能です」
「私としても、もう家で見ることはできないだろうと…。ただ、お金のこともあるので、即、老人ホームと言われてもちょっと…」
「ですよね。そこはお母さまが入院されている間に、少しじっくりと作戦を立てましょう。私も、まだお宅様のことをほとんど何も知りませんので」
「あっ、はい。そうですよねぇ」
「はい。まずは入院のことにしぼってお話しましょうかね」
「お願いします」
家では悠子が夫の帰りを待ちわびていた。
幸い義母はすでに眠りについていた。デイサービスがある日は、やはり疲れるのだろうか、比較的おとなしく床に入ることが多かった。
「どうだった?」
「うん、会ってきた。感じは良かった。信用してもいいと思う」
悠子が安堵の表情を浮かべた。いまや、もしかしたらこの果てしない苦しい日々にゴールが見えてくるかもしれないと期待するだけで、目の前のネガティブを持ちこたえて乗り切っていけるような気がしていた。だから、自分の思いつきでコンタクトした相手に対して、夫も好感を持ってくれたことがうれしかった。と言うより、ホッとしたのだ。
「社会福祉士・・・っていったかな。この資格のことも調べてみた。正直、なんだかよくわかんない資格なんだけど、ちゃんとした国家資格だし、こっちの話も通じるし。神崎さんだっけ? あの人にサポートしてもらう気になったよ」
「そう! よかったわ。で、どうなるの、これから?」
「おふくろが通っている病院には認知症病棟というのがあるらしい。で、驚いたんだけど、いまの待ち状況をもう調べてくれててさ。16人も待機してるんだって。でも、そこは医者や「何とか相談室?」とかに事情をうまく話せば、割りこむこともできるって、けっこう自信ありげだったよ。でさ、つぎの受診はいつ?」
「来週の金曜」
「そんとき、一緒に行ってくれるって。で、彼が医者に事情を話して入院に向けて話をつけてくれるって言うんだよね。彼に教えてもらった通りに俺やキミが医者と交渉するってぇ選択肢もあるって言われたんだけど…無理だろ? だから任せるって言ってきちゃった」
「うん。お願いしたほうがいいよ。お医者さんに、何をどう伝えていいかわからないし」
「だよな? 医療機関への同行、病院との折衝、3週間以内の入院ベッドの確保、退院後の施設さがし、施設入所の手続き、入所後の施設側との折衝・・・。一切合切ひっくるめて20万円かかるって話だけど、そんなの安いもんだよ。それで全部やってくれるんなら、ありがたい話だよ。何より、キミがどうにかなっちゃったら困るしな」
悠子は自然と表情がほころんで夫を見た。
「えっ? なんだよ?」
「なんか、今日はやさしいなって思って」
「ばか。神崎さんに言われたんだよ。キミがあぶないって。少しでもいいからやさしい言葉をかけてあげてくれってね」
「ああ、そういうことか。なぁ~んだ」
そそくさとシャワールームに向かう夫の背中を見送りながら、悠子は安堵のため息をついた。
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