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【百寿コンシェルジュ・神崎眞のエピソードファイル】認知症介護の迷宮(4)

その日の夕方、神崎から電話があった。数時間前に聞いたとおり、月曜の午前10時の入院が確定した。夫にも、今日の経緯と結論を電話で伝えてくれたという。

義母には申し訳ない気持ちもしたが、正直、救われたと思った。あと4日。あと4日の辛抱で、とりあえず、義母の排泄と食事の後始末、そして同じ話の果てしないリピートから解放されると思うと、何とも言えない安堵感と開放感に包まれるのだった。

夜、夫が帰宅すると、入院当日は会社を休む段取りをしてきたことを知った。協力してくれる夫に感謝した。しかし、夫は夫で、自分の母親のせいで妻がこんなにもやつれてしまうまで気づかなかった、いや、正直に言えば、仕事を口実に見て見ぬふりをしてきた自分を責め悔いていたのだ。

「あと4日はつらい思いをさせてしまうけど、なんとか頼むよ」
「うん。出口が見えていればガマンできるから」

ここ何年もなかった自然な会話が、ふたりの間に戻ってきたような気がしてくる。

風呂を済ませた夫が言う。

「神崎さんに電話で聞いたんだけど、入院っていうのは一時的な避難であって、いつまでも病院に居るわけにはいかないじゃない? あの病院は原則2ヶ月、どんなに長くても3ヶ月後には出なければならないって。だから、おふくろが入院したら、俺たちはその次のことを考えて決めておかなきゃダメなんだって。

彼に最初に会ったときに言われたんだけどさ。おふくろの場合、たぶん、もう自宅で家族が介助するっていう選択肢はないだろうって。俺もこの前おふくろと二人きりで過ごしてみてさ、今ならわかるよ。家じゃ無理だって」

悠子は、ここまで夫が理解してくれていることが信じられなかった。ほんの一か月前までとは別人のように、こちらの気持ちを慮ってくれている。それが幸せだった。

「お金の問題もあるし、あと、姉貴にもいつかは話さなきゃいけないしな」

夫には姉がひとりいる。バツイチで、仕事をしながら郊外で一人暮らしをしている。義母とは仲がいい。義母の様子がおかしくなってからは、「あなたたちがお母さんにつれなくするから、淋しくなって変になっちゃったんじゃないの」と夫に意見しているのを聞いたことがある。今回の入院についても否定的だろう。しかし、だからと言って、義母を引き取ってくれる可能性はゼロだ。

「とにかく、最大限、入院期間を延ばすためには、俺たちが必死で施設を探しているということを病院側にわかってもらうことが重要だって、神崎さんが言ってたよ。そうしているにもかかわらず、なかなか条件に合うところが見つからなくて困っているってぇ雰囲気を出すことが必要だって。認知症の人が増えてるんだろ? だから入院待ちしてる人がかなりいるんだろうな。病院を老人ホーム代わりに使ってたり、病院におんぶに抱っこで先のことを真剣に考えていなかったり・・・。病院側からしたら、そんな家族の患者は、なるべく早く退院させたがるものなんだってさ。いや、なかなか勉強になるよ。病院の世界なんて、これまでまったく縁がなかったからな」

「そうよね。こんなに一気に事が進むなんて、私、いまでも信じられない」
「だよな。ああいうプロの存在を知ってるか知らないか。それって、かなり大きいと思ったよ。つくづくね」
「あなたは、退院した後、どうしたいと思ってるの?」
「神崎さんの言うように、おふくろがここで暮らすという選択肢はもうないと思ってる。ただ、お金のこともあるから、そうそう贅沢な老人ホームに入れる余裕もない。神崎さんに言われたよ。それだったら、月額いくらまでなら払えそうなのか。それと、地域的に、どのあたりまでが許容範囲なのか。最寄り駅名で考えておいてほしいって。おふくろの入院中に条件を満たす物件を見て回るといいって。必要ならお供しますとも言ってくれてる」
「そっかぁ。神崎さんが一緒に探してくれるなら安心よねぇ」
「そうなんだけどさ…」
「なに?」
「いや、現実問題としてさ、月々いくらくらいなら払えるかって計算してみたんだけどさ、なかなかキツいんだよな」

悠子が思い出したように話題を変えた。

「そう言えばさぁ、あなた、認知症の人が共同生活するグループホームって知ってる?」
「いや、知らない」
「そういうのがあってね、だいたい月額25万円くらいだって。テレビで言ってた」
「やっぱ、そんなもんだよな」
「いくらくらいならいけそう?」
「正直、安ければ安いほどいい。25とか無理。ひと桁くらいになってくんないと」
「そっかぁ。だよねぇ。でも、そんな金額で入れるところなんて、あるのぉ?」
「・・・」
「・・・」

ふたりの表情には、同じように「あるわけないよねぇ」と刻まれていた。
ともあれ、真っ暗闇のなか、断崖絶壁を手探りで歩いていたような時を過ぎ、前へ進み始めたふたりであった。

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