見出し画像

着地点を考える

自分の話をします。

今日で姉が亡くなって4年が経つ。
もはや悲しみはない。
何をか書く必要もなければ広大なネットの海に放流するにも足らない塵芥を産もうとしている。

怒りはある。
いまだに姉に会ったこともない人からあれから4年が経ちましたね、ご家族の悲しみは、などとメッセージが来る。
お前は誰だ。
同日に亡くなった親戚の家族は墓参りに来ない。
誰ひとり姉に線香をあげはしない。
陰膳を毎食欠かさず用意する我が家。
でもそれはいい。
全て日常のすがただからだ。
誰も私の悲しみを想像しない。

悲しみはない。
記憶はある。
姉の亡くなる前の晩に放映していた名探偵ピカチュウだとか、病院で食べるようにと弟の嫁さんが用意してくれた生姜焼きだとか、家族6人せまい病室で朝を待っただとか。
あの日姉を動かそうとして、ベットに姉の頭をぶつけた看護師、亡くなっても無機質な若い看護師、なかなか来ない医師。
皆今でもあの病院にいるのだろうか。

姉が最後の力を振り絞って私に伝えたことは、スマホのパスコードだった。
メモがなくてもしっかりと覚えてある。

悲しみはない。
原動力はある。
姉が亡くなってからは自分が一番上になった。
姉のしていたことをしなければ。
子供に優しく、人のために動かなければ。
音楽を愛さなければ、ギターをはじめよう、聞かなかったバンドを聞こう。
続いたのはポケモンカードだけだったが。

着地点を考える。
たくさんの塵芥が頭の中に産まれていく。
塵芥だから掴みようがない。
産まれるだけだ。
毎日考えている。
生き方だとか、将来のことだとか、家族のことだとか、友人のことだとか、自分のことだとか。
見えない着地点を考える。
見えないものを形にしていく。

あの日姉が旅立った朝のように、薄く曇った朝の空が見える。
姉の肺からスッと空気が抜けたとき、逝ったのだと理解した。
叫べば掴めると思った。
掴めなかった。

失くしても塵芥は積もっていく。
これだけはおかしいな、と思って生きています。
自分の足元から頭の先まで塵芥が積もりいくように、私は考える容器でありたい。
そういう2024年5月23日でした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?