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ぐぅ〜っち

 人に見られずに何とか負の感情を整理して次に進めないかなぁと思案した結果、ここに行きつきました。どのSNSにも当事者がいるので厄介なものです。もうあと数ヶ月で大人も10年を経ようかという時にこんなの嫌なんですが、まぁ整理しておいてそろそろ身の振り方を変える時期かなとも思ったので。分水嶺の一つとして…。

 まず前提として、最近少し年の離れたネットを介した友人が一定数出来ました。恐らく10〜15名ほどは増えたでしょうか。リアルでもなかなかの頻度で会うのですが、これは最早ちょっとしたサークルです。年齢の構成比は概ね20代前半〜半ばです。そうなると要は年齢が若いので、言い方悪く言えば酒席で大学生を引きずっているようなフレッシュさを発揮される方もいるわけです。私は比較的年齢が高いので何度かそういう風になってもまぁまぁと思っていたのですが、今回は流石に腹に据えかねてしまう部分があったので気持ちと付き合い方を整理しておこうということです。

 まぁなんてことない話で。その日は昼間から6人ほどで集まって遊んでいました。3次会で飲み屋に行った際、参加されたネット経由の知人Aのよくないフレッシュさが炸裂しただけです。パートナーがいる年上の方へ身体的接触を伴うダルがらみ、片方を上げて私を下げる発言を繰り返す等。そのこと自体はまぁなんてことないんです。私は人から罵倒に近いようなこと言われたとしてもその場では、この人は私のことそう思うんだなぁ…まぁそういう一面もあるもんなぁって。タイムラグの後少し頭に来ますが、あれだけいわれりゃ怒る権利もある、でもそれでこの話はお終いで、いいんですこれ自体は。ありがたいことに他の友人Bもかばってくれたし。どちらかというと私の苛立ちとか憤りはその後で。

 要は明確に場の雰囲気を悪くしているわけです。私にいらないことを言って。ので、そろそろいい時間だしお開きかな、というような流れになったわけです。それでいてAは終電がないから朝まで付き合えだの、パートナーがいるのに異性の部屋に泊まるだのと、うだうだやっているわけです。終電がある時間に帰らないのがそもそも悪いと思うのですが、遠方から来てもらっていることもあり、少し後ろめたい気持ちがあったため、なかなか解散のタイミングがつかめませんでした。するとダイヤ乱れで同じく終電がないため介抱役に名乗りを上げてくれた友人Cがおり、Aがくだを巻いているうちに折りを見て退散しました。我々が黙って退散してしまったので、Aに路上で泣き崩れられたりして大変だったそうですが、Cが根気強く介抱してくれたそうです。その残ってくれた友人Cによると、実は、Aの電車はまだあったらしく一通り励まされたら大人しく帰ったそうです(個人的にはAの住んでる街と集まった位置的に実はまだ帰れる時間だと思ってた。構ってほしくて駄々こねてるだけと薄々気づいてた)。そして知人Aと関係者たちから酒席での態度を詫びるメッセージが私のもとに送られてきました。張本人である知人Aからの謝罪が一言のみの一番シンプルな謝罪でしたが、まぁ酒席でしたことだし水に流そうといい、一応その日は終わりました。

 では、私は何に憤っているかと申しますと、前日散々やらかして他の5人の思い出に泥塗っておきながら、パートナーに不快な思いさせながら、SNS上で本人は全く気にしておらず(少なくともそういう雰囲気は感じられず)楽しそうにしていることです。それだけ?と思われるかもですが、心許すまでは長いけど一度心を開くとなかなか締まらない、私の心はガラガラガラっと閉じてしまいました。なぜならこうしたことは一度目ではなく、その都度、本人は反省のかけらも感じられないのです。多少悪びれてる時もありますが基本的には自分を慰めている感じで。今回は悪びれていないのを特に顕著に感じました。

 多数が集まる場で空気を悪くしたんだから数日は自省しててほしい。あれだけ名指しでBに怒られていたので。あとは、元からあった予定でしょうから、楽しむなとは言いませんが、せめてSNS上では数日反省しておとなしくしてて欲しい(というか気まずいからそうするだろ普通…)のですが、軽率に写真はあげるわ、全肯定してくれる人に会いたいとか、自分のスタンスは純恋歌の彼女みたいだよなとか、カイジに出てくる債務者より暢気なことを言っているし、被害者ヅラで開き直って言葉のベクトルがすべて自分を向いていてげんなりしました。こうなってくると、退散後に送られてきた謝罪のメッセージについても、全くもって誠実さや真実味に欠けてきます。例えその場で本人は本気だったとしても、受け取る側である私は全くそう聞こえなくなってしまいます。酔っぱらった延長なんだろうな、とりあえず謝ればいいんでしょくらいなんだろうな、という投げやりな気持ちを勘ぐってしまう。そもそもは(私たちも烏滸がましい話なんですが)、その疑似サークルになっている身内内で最近Aが少し煙たがられ始めていたので、開き直って誠実じゃなくなる、他人に無遠慮に悪辣なこと言うところ気を付けなという話をしたばかりでした。故に余計に癪に触るわけです。

 ただ、今思うとこれは年長者の悪い癖で、どうしても人は他人を御せるものだと思ってしまうんですね。我ながら恥ずかしい勘違いです。この世で一番不可能で徒労な思い上がりです。他人は思い通りにはなりません。残念ながら。そうしようとすることも烏滸がましいです。それでも変わってくれる、仲良くしていたいから向こうもこちらの優しさに気付いてくれるはず等と無意識に他人に期待をしています。期待もこちらの一方的で粘着質な祈りです。勝手に祈って叶わないと裏切られたと憤ります。でもそれが当たり前なのです。こちらが勝手に祈っているのだから、その祈りが届かなくても怒ってはいけない。ただ、感情が消費されてしまうのは避けられない。

 では、どうするのか。大人は体力や精神も、スマートデバイスのバッテリー容量よろしく日々劣化しているので、とにかくリソースが少ないです。時間も限られています。デバイスのパフォーマンスを保つためには、メモリや電池を食うものはアンインストールしてより長く保つように工夫します。大人も同じです。少ない時間と感情と体力のリソースをやりくりするには、関わりをなるべく減らすしかありません。期待という祈りも辞めるしかない。残念ながら。「立って、歩く」立派な足がまだある私にできることは、それだけなのです。

友人を知人に言い換えるのは悲しいですね。

出会いと別れの!!!春!!!!

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