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科学史から見た量子力学の間違い②

前回は量子力学の間違いが1924年のドブロイ波にあることを指摘した。1920年のラザフォードの核内電子説はまだ有効だ。なぜ、電子を確率的存在とするドブロイ波が導入されたのだろう? 原子模型から振り返ってみる。

ドブロイ波以前

物質を細かく分けていくと原子ーアトムに行きつくという考え方は古代ギリシアまで遡るが、原子の内部構造を考えるようになったのは比較的新しい。1904年に電子を発見したトムソンがブドウパンのように電子が原子の中に存在しているというモデルを提唱した。

トムソンのブドウパンモデル

トムソンの原子モデルにはまだ原子核がなかった。原子核を発見したのはラザフォードで、1911年にラジウムから放射されるプラスの電荷をもつアルファ線を金箔に打ち込むと、曲がったり、少ないがまっすぐに跳ね返る場合があることから、原子の中心には硬いプラスの電荷をもつ塊があることを見つけた。この時点では陽子はまだ知られていなかった。陽子を見つけたのもラザフォードで1918年のことだ。

ラザフォードの原子模型 周囲にある電子には軌道がない

1913年、ボーアはラザフォードの原子模型にバルマーのスペクトルなどを加え、周囲の電子が周期的な軌道を持つボーアの原子模型を提唱した。

https://www.thoughtco.com/bohr-model-of-the-atom-603815

ボーアの原子模型ではプラスの電荷をもつ原子核の周囲をマイナスの電子が回っていると考えられた。電子と原子核は引き付け合うので、遠心力が電子の状態を維持しているはずだ。しかし、当時の古典力学の解釈では回転する電子は加速度を受けるため、電磁波を放射して運動量を失い原子核に落下すると予想された。ところが、原子は存在している。軌道上の電子は原子核には落下しない。このメカニズムを求めることが量子力学へとつながったのだ。

1918年にラザフォードは陽子を発見する。これを基に1920年に原子核内部に電子が存在する核内電子説を発表した。原子核は陽子と電子で出来ていると考えられた。この論文はネットで読むことができる。

1920年、この時点で物理学会では核内電子説が有力な理論として受け入れられていた。ところがこの頃からラザフォードは社会的地位が上がっていったため、実験の現場から離れるようになってしまったらしい。中性子はラザフォードが予想したが、実験を受け継いだチャドウイックに発見の名誉は授けられた。ラザフォードは1926年に王立協会会長に就任している。
年表では1924年にド・ブロイがドブロイ波を発表するが実際に受け入れられたのは1927年以降だ。電子線の干渉実験で検証された。また、ドブロイ波はアインシュタインの光量子仮説と対比され、電磁波が粒子なら粒子が波でもいいのではないかと思われたからだと伝えられている。

ドブロイ波は不要

さて、1920年で時間を止めてみよう。原子核内部にマイナスの電荷が存在するとわかったが、相変わらず、原子核はプラスの電荷だけが周囲に影響を及ぼしていると考えられた。これはプラスとマイナスの電気力線が途中で中和するというマックスウエルの電磁気学の理解である。マックスウエルは静電気によるクーロン力を熱と同じように途中で中和すると考えていた。しかし、ファラデーは静電気によるクーロン力はまっすぐに届くと考えていたのだ。

クーロン力はまっすぐに届く

前回説明したように電気力線は途中で中和しない。プラスとマイナスは別々に対象に届き、対象内部でベクトルが合成される。これを核内電子説に当てはめると、原子核内部にある陽子のプラスは軌道上の電子を引き付けるが、同時に原子核内の電子に反発している状態だ。軌道電子は原子核のプラスとマイナスにゆるくつながれた状態である。
これを磁石を使って実演した動画がある。

磁石はNとSに引き付けられつつ反発して、ゆるくつながっている。原子内部でも同じことが起きているのだ。これならドブロイ波という突拍子もない現象を導入する必要はない。電磁気学を正しく見直すだけで説明可能だ。

軌道電子は原子核のプラスとマイナスにゆるくつながれている

量子力学が間違っていると指摘する場合、不確定性原理、コペンハーゲン解釈などを論ずる場合が多い。しかし、量子力学内部での矛盾を指摘してもあまり意味はなく、量子力学は少しの修正を施され、続いていくだろう。次回は量子跳躍を解説してみよう。

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