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小沢健二『So kakkoii 宇宙』感想

 2019/11/13に小沢健二の新フルアルバム『So kakkoii 宇宙』がリリースされた。ここにその感想をまとめていきたい。基本的には「ここが好き~/これってこういうことかな~」くらいのやつで。
収録曲順に感想を述べてって、最後にアルバム全体の総評を記す構成をとる。

1.彗星

 本作一曲目、この曲の高揚感ったらありゃしない。しかしながら、この高揚感は『LIFE』を聞いた時のものとは異なるものだと感じた。それこそ歌詞に出て来る「1995年」以降リリースされたシングル曲(最も近いのはこの曲の年の離れた姉妹曲とも言うべき「強い気持ち・強い愛」か)の高揚感に似ていると感じている。では、どのように異なるのか。
 俺は『LIFE』の楽曲の高揚感はリフレイン・反復によるものだと感じている。同じメロディーなどを繰り返すことでの高揚感…それは、元ネタになっているブラックミュージックの基本だったりするのではないか、と思いつつ。
 一方、この曲は曲がどんどん展開していき、異なるメロディーが時間が進むごとに現れ、高い所へと誘って/飛び去っていく。同じところを回り続ける円環による高揚ではなく、さながら彗星の如く飛び去るスリリングさによる高揚なのだ。異なるメロディの洪水で高揚させるポップスとしては、この「彗星」を聴いた俺はBECK「Up All Night」や岡村靖幸「ラブメッセージ」を想起した。

 そして、そのような曲の中で歌われる歌詞であるが、俺は「『子ども』の存在」という点に着目した。そしてこの要素は、このアルバム全体のテーマの一つとして考えることも可能だと考えている。
 それが端的に表れているのは「だけど少年少女は生まれ 作曲して録音したりしてる 僕の部屋にも届く」だ。ここで現れている「子ども」は、自分とパートナーの間に生まれた実子のことではなく、自身の影響を受け、その影響を昇華している次の世代の存在である。本作『So kakkoii 宇宙』はこの意味での「子ども」のことについて歌っている割合が高いのではないかというのが俺の見立てだ(その理由が小沢健二のもとに二人の子どもが生まれたから、というのは何とも作家論的過ぎてキツいものがある/けれどもこの後その筋で述べることも少なくないという…)。
 この観点で見ると、ラストのパートの「あふれる愛がやってくる その謎について考えてる 高まる波 近づいてくる 感じる」というのは、自身がこれまでに捧げてきた「愛」を受け、昇華してきた次世代が起こしつつある波について述べていると考えられるのではないか。SONGSで小沢健二はあいみょんの武道館公演について言及していたが、次のディケイドに向けての次世代による「波」の存在を感じ取った、その喜びを曲に表したと考えることもできるのではないか。

2.流動体について

 初めてサビ聞いた時は笑ってしまったよね…。そして、言葉数によるものか、ストリングスの持つ推進力によるものか、時間が短く感じたことを覚えている。音の面では「ボヨンボヨン」と鳴る音が何によるものか(タブラ?)分からないけれど、気になって耳を引くなあと思いつつ。
 「ある光」との連続性や、同時期に放映された『ラ・ラ・ランド』との並行世界モノとしてのこの歌詞については散々語られていると思うので、それについては割愛して前曲で挙げた「『子ども』の存在」についてこの曲でも触れていきたい。
 「並行する世界の毎日 子供たちも違う子たちか」とあるが、これを作家論的に見ると、子供の生まれた小沢健二が自身の子どもの様子を眺めて…という話になるが、前曲との関連性を踏まえると、「もしかしたら次世代の彼らは違う表現をしていたかもしれない」という自身の後進に与えた影響を見つめる詞として捉えることも可能ではないか。正直これは中々こじつけ甚だしいが…笑(わらえ、と読んでもらうべきか)
 また、この曲の中では「彗星」というワードが現れ、「彗星のように昇り 起きている君の部屋までも届く」と歌っている。つまり、この2017年の時点では発信者・啓蒙の主体としての自意識が強く表れていると言える。これは「彗星」の歌詞の有り様と正反対のものである。小沢健二自身、帰還後の活動を経て「子ども」の存在に強く感じる所があったのではないか。


3.フクロウの声が聞こえる(魔法的オリジナル)

 始まりのギターの生々しい耳ざわりから、シングルのアレンジとは全く異なる魔法的オリジナル。個人的にはシングルの方がゴージャスかつファンタジックで好みなのだけど、それはさておき。
 この曲に関して特にTLで見掛ける言及として「小沢健二の歌が…」というものがある(まあ全体に言えることでもあるか…)。この曲で最も高い音でかつ張る声を出さなければならない「扉が開く」の部分が、その言及の際たるポイントだと思われる。確かに、是非はともかくこの部分は聞いてて引っ掛かり過ぎるほどの印象がある。
 だが俺が気になるのは、何故いくらでも修正などを掛けられるのに、この状態のものを完成(魔法的オリジナルの)としてリリースしたのか、ということだ。これである必要性や、このような姿を録るべき理由や、それによって伝えたい/聞き手に伝わる何かがあるためにこうしたのではないか。俺は実感含め以下の2点の効果、意図があるのではないか、と感じて/考えている。

 ①エモーショナルさの増幅
 「エモい」ってやつです。シングルバージョンの方ではファンタジックさや、ポップで絵本のような質感が前に出て、いわゆるロック的なソリッドさというものとは距離があった。しかし、この魔法的オリジナルではイントロのギターしかり、バンドサウンドを基調としてる点しかりロック的なソリッドさをもった姿を見せている(宇野維正さんはXTCの名を挙げてたっけ)。それに合わせて、FUKASEの声がなくなり、小沢健二のありのままの状態がダイレクトに伝わる。で、あの歌声…俺はグッと来た方なんですよ…ポップスターのキツそうな姿を録るのか!という驚き込みで。

 ②自分の限界以上のことをする様を「子ども」に見せる強さを得た
 これは強さなのか、信頼とも言うべきかと思えどもだけれど。まあこれまで述べてきている「『子ども』の存在と結び付けての考察というところ。この曲の歌詞自体が親と子が散歩に行く有様を踏まえているものである。「子ども」に見せる親の姿というものは何でもできる全能的な姿ばかりなのだろうか、だとしてそればかりでいいのか。人には、それが外発的にせよ内発的にせよ持てる力以上の力を求められ発揮せんともがく瞬間があるはずだ。それがまさにこの高音部なのではないか。

という感じで…にしても、頭からこの三曲の畳み掛けっぷりったらない。こっからのミドルテンポゾーンもイイんだよなあ。


4.失敗がいっぱい

 リズムトラックが打込みで、それまでの三曲とは大いに異なっている。このことでいうと、テレビで小沢健二がiPhoneを扱ってリズムトラックを流す姿には驚いた。iPhoneは楽器でもあるんだよな…、とそれはさておき。
 この曲の歌詞、中々辛辣だ。「秘密はあるもの 隠すもの 追及されたら否定するもの みんながないフリをしてるけどね」というのは政府のあのキッチィ有様が重なるし、「誤解はするもの されるもの どんどんと溝は深まるもの あるとき悲劇の幕が開くまで」といのはSNSでの炎上にまで結びつくやりとりについて述べたもののようにも聞こえるし。
 もちろん「可愛い人たち どうしてでしょう 性格めちゃくちゃに悪いよね つけ上がらせてる 世の中のせい」という一節も親の立場でありながら中々なこと書くなあと思いつつ、一方で「世の中のせい」「可愛い人たち」=「子ども」は性格が「めちゃくちゃに悪」くなっているんだ、という性善説に基づいたものなのかもしれないな。つまりはその「世の中」を生み出した存在である「大人」が悪いんだと自省も込みなのではないか、と。
 一方で、この曲のサビを聴いて俺は、この頃TL見て知った菊池成孔のラジオ「粋な夜電波」山下達郎「Sparkle」前口上を思い出した。

つまりは生きることの肯定をしているのだな、と思ったわけで。そもそも、この「宇宙」=「我々の生活」には「失敗がいっぱい」であり、「涙に滅ぼされ」て自身の命を捨てたりしちゃいけないんだというメッセージを中心にしてるのではないか。
 「晴れた冬の朝 僕たちの魂は透き通る 訪れる幸せ 桜並木をどこまでもゆく そんな日がくるような気はしないけど」とのような、明るい未来への希望が無くても、「笑えないを笑えるにする力」「踊れないを踊れるにするお酒」「眠らないを眠れないにする月」があるこの「宇宙」で何とかして生きて行こうよ、という労りや励ましが、辛辣な歌詞と同居しているのだと受け止めた。


5.いちごが染まる

 管弦楽隊の芳醇な音がたまらんなあ…少し『球体の奏でる音楽』の漢字もありつつ。「もんしろ蝶~吸って吐いて」で入るブレイクもカッチョええ…。同じパートの「今もう少しで」のロングトーンを揺らめかす歌い方は蝶がひらひらと飛ぶさまを重ね合わせたものか?と思いつつ。
 歌詞はかなり抽象性が高い…けれども、俺は「自分が育てるものの「いのち」への慈しみ」みたいなことを表しているのではないかと受け止めている。そのようなことを詞に表すのは小沢健二に子どもg…ってこの曲が初披露された「ひふみよ」ツアー時点ではまだ第一子は生まれてないのか…。
 言葉の使い方で言うと、「きらり足音聞いて」というのが超好き。未来に向かう足取りにこのような輝きを表すオノマトペのつくことの肯定性よ!


6.アルペジオ(きっと魔法のトンネルの先)

 「失敗がいっぱい」で言及してたけど、まさにこの曲こそMステで小沢健二がiPhoneを扱ってリズムトラックを流す有様を映してた曲。満島ひかりとのコラボレーションも見事なものだった(春の空気に虹をかけツアーでの彼女の存在感も目を見張るものがあった/それは異物感と異なる)。
 もう俺は冒頭の「幾千万も灯る年の明かりが生み出す闇」「明"かり"」「闇」という正反対の言葉で、「ai」で韻を踏んでいる所でヤッホーイとなってしまってる…。まあでも、これまでの彼の押韻の仕方に比べたらスマートじゃないというか、スゴいはっきりと踏むよなあ、とも思う。アクセントも付けて強調するように歌ってるし。
 この曲と言えば、先に歌詞がオープンになったタイミングでベボベ小出氏やくるり岸田氏など色んな人が「歌詞が凄い」と呟いていたことが印象に残っている。それは、どの点で「凄い」といってるのか定かではないが。

 まず、この歌詞は小沢健二にとっての最重要人物である岡崎京子への「友愛の手紙」であるということ、そしてライブや様々なつながりや表現を通じて「子ども」がいることを実感したことの表明だ。ヒコさんの「青春ゾンビ」のアルペジオに関するエントリをぜひとも読んでいただきたい。

 そしてこの歌詞にはその当時のスキャンダラスな側面をも描きだしている。しかしながら、そのパートは音源では映画『リバーズエッジ』出演者の吉沢亮・二階堂ふみによって語られている。それによって、書き手であり歌の主体たる小沢健二との間に一枚フィルターを挟むこととなっていると感じる。そもそもこれを書くこと自体が云々というのもあるんだろうが、リアルタイマーでもない俺は大して気にならなかった。大事なのはそこではないし(では何でわざわざ書いてるの?と反駁が考えられるが…)。


7.神秘的

 一人多重コーラス好きなんだよなあ…。大滝詠一「おもい」…平井堅「キミはともだち」…吉澤嘉代子「野暮」…山下達郎『ON THE STREET CORNER』シリーズ…。。と、ほんのちょっぴりしかパッと挙げ切らない見識の狭さに赤面するばかりなのだけど。

ここでも「子」と「父と母」というワードが出て来る。…が、正直歌詞については何ともこれはこのことを言ってるな、という自分の中での結論のようなものは出ていない。しかしながら、ラストの「神秘的 でも それは台所の歌とともに 確かな時を遠く照らす」という一節を踏まえると、「神秘」と「宇宙」=「我々の生活」は離れたものではなく一体となって溶け合っているものだと歌ってるのかな、と思った。


8.高い塔

 強烈にkakkoii一曲。『犬』~『LIFE』期のリフレインによる高揚・爆発と、『Eclectic』期のアーバンなR&B?の音遣いと、近年の「子ども」へのまなざしとが一体となったモニュメント的一曲になっているとまで言えはしないだろうか。この曲を聴いて、まず「生きることはいつの月日も難しくて」の所で差し込まれるキーボードの音色が、スティーヴィー・ワンダー「迷信」のようでそのファンキーさにアガった(その後、マーヴィン・ゲイ『Midnight Love』も聴いてみて、近しいものを勝手に感じつつ)。流麗なストリングスもふんだんに入っており、メロディアスではあるけども、この曲はかなりファンキーでリズミカルなものとして感じられる。

 サビの最後「吼えさせる」「る」を伸ばすのも印象的。伸ばしつつ、切らずに「Woo-hoo-woo-hoo」と続けるのはなんとも山下達郎的なフィジカルの発露だなあと思いつつ。
 本作の中では6分台と長く、歌詞の量も多い。大量の情報の中で歌われていることは、やはり基本筋は「『子ども』たちの存在」と「未来に向けての肯定」ではないかと思う。「古代の未来図は姿を変え続ける」というフレーズを受けて、俺がすぐに頭に浮かんだのは、ドラえもんであり、鉄腕アトムであり、AKIRAなどなどの漫画・アニメ・映画・文学etc.だった。これらは時代設定がいずれも近未来である(「ドラえもん」は時代設定は作者の今だが、ドラえもん自体は未来から来る)。もちろん、ある時ある時で考えうる未来図は常に変容し得るし、現在の行動如何で未来図は常に変容し得る(そういえば、ターミネーターの新作やってるな…)。
 この「古代の未来図は姿を変え続ける」というフレーズに続いて「子どもたちを叫ばせる(吼えさせると歌っている)/大人たちを燃えさせる」というフレーズが来て、その「子どもたち/大人たちを~」というフレーズはもう一度ずつ現れるのであるが、それは以下のような意味づけがあるのではないか、と想像した。

 ①「子どもたちを叫ばせる」
 →「大人たち」が描きだした「未来図」に対して、驚きワクワクし、
  その高揚によって叫ぶ。
 ②「大人たちを燃えさせる」
 →その「叫び」を受け、大人として未来図を実現させんと自らの仕事に
  打ち込み燃える様子(また、その「叫び」というのは「子どもたち」
  であったかつての自分の「叫び」であるかもしれない)。
 ③「子どもたちを吼えさせる」
 →燃えた大人たちにより作り上げられた目の前の「未来図」が
  「吼えさせ」、またその有り様を受けて「子どもたち」が自分たちの
  世代としてできる「未来」を創造して行こうとする。
 ④「大人たちを吼えさせる」
 →次世代の「子どもたち」が作ったものに驚き、心を震わせ「吼え」させ
  られている。

 つまり、「宇宙」=「私たちの日々」での行いは「大人」と「子ども」の間で循環していき、未来を大胆に勇敢に揺らし得るものだということが歌われているのではないか。また、その未来を揺らし得るのは「大人たち」だけでなく「子どもたち」でもあるのだということも表している。
 「ドキドキする 神秘と行くよ(行こう) 0から無限大の方へ」というフレーズはまさに上記のように無限大に変容する未来に能動的に向かっていくことへの肯定であろうと思うし、「神秘がかかる瞬間は 最強で 最高で」というのは先述のフレーズと共振するフレーズであろう。
 そして落ちてくる「Stardust」「大人/子どもの未来への能動的な変化を求める意識」であり、それらが「森に海に橋に 掌の上に」落ちてくることで、様々なイノベーションが達成され得るということではないだろうか。


9.シナモン(都市と家庭)

 この音作りは前曲「高い塔」と似通ったところがある(『Eclectic』以降感)ので、この位置に置いたのだろうなと思いつつ。やはり、「友愛の修辞法は難しい 恋文よりも高等で」というフレーズは中々含蓄に富んでいる。この意識というものが岡崎京子への友愛の手紙たる「アルペジオ」へと結実していくことを鑑みると、ささやかながら見逃せない一曲と言えるのではないだろうか。
 サビで「シナモンの香りで僕はスーパーヒーローに変身する」とあるが、この「香り」つながりで最終曲「薫る(労働と学業)」の前に置かれたのだろうか。前曲で高まりまくったテンションを抑える役目もあるのかとも思いつつ。


10.薫る(労働と学業)

 SONGS出演時にも披露していたことから分かるように、「彗星」と並んでシングルを除く本作のリードトラックの一つと言えるだろう。『LIFE』に親しんできた人にも受け止めやすい「愛し愛されて生きるのさ」「ぼくらが旅に出る理由」のようなアコギとストリングスを基調とした跳ねるリズムのポップスとなっている。

加えて、既存曲との関連を述べるなら、「冬の公園で わかりあうんだよ そのじれったい 華々しさを!」というフレーズは「痛快ウキウキ通り」の「喜びを他の誰かと分かり合う!それだけがこの世の中を熱くする!」と共振するのではなかろうか、という点にも触れておきたい。

といって、かつての名曲を並べて、焼回しをしているだなんてこれっぽっちも思わない。歌詞で表されているテーマなどの更新・変化が大きいこともあるし、音の鳴り方が違うような。
 まず最初のサビ?で「君が君の仕事をする時 偉大な宇宙が薫る あきらめることなくくり出される 毎日の技を見せつけてよ」とあるが、これまでと同様「宇宙」=「私たちの日々」のことだと考えると、「仕事をする時」「日々」「薫る」と歌っているのだ。つまり、今目の前で行われている「仕事」というのは、日々積み重ねてきたことが表出して成るものなのだということを言っていると考えられる。
 そしてここでの「見せつけてよ」という言い回しは俺は「~をしてよ!」という要求的な用法というよりも、「やっちゃてくれよ」的なフランクなものだと思うし、「見せつける相手」というのはそれこそ「宇宙」に対してではないか、とも思う。
 日々というものは簡単には終らなくて、それこそ「仕事」というのは職業的なそれ以外にも無限にあるわけで、でもそれに対して「あきらめることなく」日々それらに対抗するように生きていっているわけで。「君が生きていく中で磨いた技(それは何も消極的に身に付けたものじゃないんだよという労りを持った言葉ではないか)を見せつけるが如く、この「宇宙」で生きて行こう」というメッセージではないかと思った。

 次に小沢健二本人も気に入っていることをツイッターで述べてたのが「~の中の~ あるいは」のパートだ。ここは、メロディーと言葉とが上手く溶けて弾んでいて、ポップに響かせられていて流石だなと思うばかりだった。

 例えば、「今の自分の中に『あの頃の自分』がいる」という歌詞は、それなりにあったと思う。例えば、近年ではBase Ball Bear「文化祭の夜」「不思議な夜」や、桑田佳祐「若い広場」といった曲の歌詞がそれにあたると言えよう。しかしながら、「薫る(労働と学業)」のこのパートで歌われていることは、それこそ、このアルバムのタイトル「宇宙」の英語表現「Pluriverse」なものだと言える。つまり、「宇宙」というのは社会において多層的に存在するばかりでなく、個人の中でも多層的に若しくはマーブル模様的に存在することを表しているのではないか。そして、俺なんかではこのようにグダグダと述べなくてはならないことをポップに鳴らすんだから、ハンパねえよなあ小沢健二。

 最後に、「どしゃぶりの雨の中で~」のパートの中で印象的だったのが、「もう少しで 何が最高かは/何がちょうどかは 変わるから」と、「何が最高/ちょうど」かが「分かる」のではなく「変わる」と歌っているのがおもしろいな、と思った。それは、SONGSで言われてたこれから求められる「新型の日本式」のことと結びついてくることなのかなあ。そして、その変化のためには次世代の「子ども」たちの力が必要であり、共働・協働していきたいとも考えているんだろう。「どしゃぶりの雨の中」という「宇宙」の中では「大人も子どもも/かっこよくても変でも」隔たりはなく、関係ないんだ。それは同じ宇宙を生きる同士として。


総評

○『LIFE』2ではない。 

 やはり小沢健二のアルバムの中で『LIFE』は歴史に残る金字塔的作品である事は間違いないし、本作品収録曲が明るく管弦楽を従えたポップス(それはアレンジの面では『LIFE』期とリンクする側面がある)を少なからず収めていることも間違いないが、本作を過度に『LIFE』と比較したり『LIFE』2として受け止めたりすることはあまり正当な評価たりえないのではないかと思う。
 それは楽曲の面では「彗星」のパートで述べたように、本作はリフレインで高揚をもたらすタイプの作品が多くないためである。それに一番近いのは「高い塔」なのではないか?しかしながら聞き心地としては全然異種のものであることは明白だ。
 また、歌詞の面においても大いに異なる。『LIFE』で歌われていたのが今あることへの賛歌であったり、背景に大きな闇や悲しみや暴力的な気持ちがあるからこその喜びや輝ける側面の称揚であったのに対し、本作は背景に大きな闇が(今の時点では)大きくは見えなく、未来への賛歌や自身の「子ども」たちへの眼差し、その存在への自覚というものになっている。


○「子ども」の存在と、未来への肯定

 散々これまでに言及しまくってるので割愛しま…すが、このアルバムは「これから」への肯定、良い方へ変化をしていこうという呼びかけ、そしてそれを作る中心たる「子ども」たちへのまなざしが、このアルバムのテーマ…という風に俺は受け止めました(保身的な言い回し)。


○音楽的革新は…?(小沢健二史における)

 「彗星」「流動体について」「薫る(労働と学業)」は『LIFE』期~その後のシングル群的なアプローチをしており(もちろん、そのまんまのトレースではない)、そこだけ取り上げると懐古主義的で「当時のファン」におもねっているように聞こえるかもしれないが、それはそうだとしても、「全力疾走してきた」「友」に対するある種のサービスではないか、と思う。
 だし、これまで述べてきたように、当時との変化は多分にある。全体としてその時期とは音の分離具合というか、それぞれの位相の違いみたいなものが本作はハッキリしているので、それによる印象の違いもあると感じている。
 個人的には、『Eclectic』以降感のある「高い塔」「シナモン」のような楽曲、あと打込みを基調とした「失敗がいっぱい」「アルペジオ」的なトラックももう少し聞きたかった気持ちがある。もちろん、先述したようにコーラス、管弦楽隊の生み出す豊かなポップスというのも心動かされないわけないのだけど、cero『Obscure Ride』等を通過した今、聴きたいのはこっちよりも、というのがね。無くは無いっす。
 しかしながら、このアルバムは「帰還」するまでの音楽的蓄積をボーカル有のポップスでどう表現するかというトライの場としての機能もあるのだと考えられるので、「君が僕の歌を口づさむ 約束するよ そばにいると」と歌うなら、「いっぱい(曲を)書こう/書けるだけ書きます」と言うのなら、次のアルバムを楽しみにするばかり。

#ozkn #小沢健二 #sokakkoii宇宙

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