「善良さ」に傷つくのが怖くなってしまっていることと、それでも、たくさんの応答に感謝しているということ。

まずは、先日、投稿した文章を読んでくださった全ての方に、感謝したいと思います。
たくさんのフォロー。
たくさんのいいね。
たくさんのメッセージをオープンな形で、ひっそりとした形でいただき、ありがとうございます。
noteで投げ銭的なものをしてくださった方にも(そんな機能があったなんて!というのも結構びっくりしたのですが、自分で設定していたのかね…あれは)、一人ずつありがとうございました、とは言えてはいないのだけれども、とても感謝しているし、あぁ、このお金をうまい棒にでもして食べきるまでは死ねないなとは思っています。

また、僕となんらかの形で、交流があり、前回の文章でなにがしかの葛藤があった人には、ごめんね、と言いたいと思っています。
お互いに身を削る思いで語らなければいけないところを、こういった一方的なカミングアウトをしてしまいごめんなさい。
僕は、対面でのコミュニケーションがとても苦手で(おそらく実際にお話したことのある人の多くは、そう感じないでしょうが…)、相手が感じていること、相手の痛みを過度に感じてしまう(ように自分が感じている)ため、自分が言いたいことがほとんど言えなくなってしまいます。
ですので、ノートに思いをぶつけて、推敲して、ときには推敲することをなくそのままで、こういうふうにぶつけることが、もしかしたらよいのかもしれません。

すべてのメッセージにきちんと応答できていないのだけれども、僕は、生きているし、生きていきたいと思っているし、意外と元気です。(これは明らかに、みなさんのおかげで、元からそうであったかのように今思えているだけなのですが。)

このタイミングでのカミングアウトは、僕にとっては、割と投げやりな感じで、どうしようもない感じで投げたものでした。
もちろん、セックスワークについては、たくさんの方々が既にオープンに活動されていて、常に「痛み」を感じながら活動されています。
僕は、僕が僕の感覚や経験でセックスワークについて語ることについては、慎重でありたいと思っているし、そうあるべきだとも思っています。今まで積み上げてきたセックスワーカーの活動家の、あるいは現役の多様なセックスワーカーの「今」を僕が奪いとってはいけないし、彼女ら/彼らの取り組みを後押しする文章/実践がどこまでできるのか、僕は実のところわかっていません。
それでも、僕が書けることはあると思うし、誰かを抑圧することなく、僕が誰かに与えるダメージを最小限にすることをカレンダーのリマインダーにでも入れておいて、それを定期的に思い出し、自分のための/誰かのための、文章を今まで通り書いていきたいとは思っています。

たぶん、自分でも気づかないうちに結構ギリギリで、メールが返信できなくなったり、メールを開くことができなくなったりすることも日常生活の中で多いのだけれども、そうして、ごまかしごまかし生きているのだけれども、これからは、そつなくこなしています、というスタンスではなくて、そつなく当事者運動やってますではなくて、「やばいけれど生きているよ、イエーイ!」と言い続けたいなぁと思っています。あなたもやばいし、わたしもやばいよね!と。
でも、それでも美味しいものはあるし、ビールは旨いし、一人でハイボールを作ってバトラーやスピヴァクを読む瞬間も、友達とスイカ割りしているときも最高にはっぴーだ、ともう少し知らなかった世界を楽しんでみたいし、生きてみたいと思っています。

久しぶりに、LINEでメッセージをくれた方や、twitterでメッセージをくれた方。
そういうのを開くときにとてつもなく緊張している自分がいて、驚いています。
僕は、いつ、どんな形で、どんなふうに、自分が傷つくのか、まだわかっておらず、だから、みなさんが私を心配してくださることで、傷ついてしまうこともあって、実はそれが一番しんどいのです。
LINEの通知を開くことが実はとても怖く、暴漢に刺されるよりも、友達に刺される方が怖く。
それでも、開いて読み終わったときの、温かいスープがお腹の中に溜まっているような温度を思い出して、天秤にかけるように、開いたり開かなかったり、ビールを飲んで開いたり、「えいや」と言いながら開いたりしています。

”中傷的な発話が提起する問題は、もしもわたしたちの関心が、語られる言葉や、語られうる言葉や、明瞭に意味される言葉だけに向けられるなら、人を傷つけるのは言葉のどの部分か、不快にさせるのは表現のどの部分かということになる。だが言葉による中傷は、名指された言葉だけによってなされるのではなく、名指し方ー主体を呼びかけによって構築するときの様式(傾向や慣習的態度)ーにもよる。”(Butler, 2004 竹村和子訳, 2004, p.4)

「オカマ」や「ホモ」や「ウリセン」やそういう言葉に傷つくわけではなくて、私が傷つくのは幸福な言葉で、それに抗うことの難しさを日々感じています。
学校現場でも、よく事前学習で何をしましたか?と聞くと、「使ってはいけない言葉」として「オカマ」や「オネエ」や「ホモ」「レズ」なんかを教えました、とおっしゃる先生もいます。それは、確かに歴史的に、他者に投げかける言葉としてはネガティブになりやすいのだけれども…
そうやって使っていい言葉と使ってはいけない言葉を強制することよりも、言葉がどう「触発する」のか、なぜ言葉の痛みが身体的な痛みに変わるのかを考えることも大切なのだと思います。

「幸せになってほしいから、そんな仕事は辞めた方がいいよ」
そういう僕の幸せを願う気持ちから出てくる「幸福な」文章の方が僕を引き裂く。
善良な人々からくる「善良な言葉」。

知らないことによる偏見、それは許されないことだと思うし、なくしていきたい。でも、
知らないことによる偏見を、個人として、僕は責められない。
善良でありたいと思う気持ちは、とても大切で。
だから、糾弾したくもなく、僕はまだ、他人が変わることをあきらめているわけではないし、自分もかわっていきたい。
僕には、嫌われたくない人がたくさんいて、一緒に生きていきたい人がたくさんいて、とてつもなく、やるせなくなることがあるのだけれども、いろんな「正しさ」の「善良さ」の地場の、接合面に常にいたいと思っています。

P.S. あぁ、この文章は、「僕にメッセージを送らないでね」という表明ではもちろんありません。僕はその行為そのものにとても感謝しているし、全てを読んでいるし、僕からの返信がなかったとしても、<わたし>は、すでに、<あなた>からたくさんのものを受け取っているし、<あなた>が<わたし>に送ることで、お互い、何かしら痛みが走ったとしても、その痛みが心地よくなることもあると信じている、ということです。

【参考文献】
Butler, J. (2004). 触発する言葉. 竹村和子(訳). 東京: 岩波書店.=(Original work published 1997).


にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。