「『正しくない』LGBT講座」、というタイトルをめぐる攻防

今度、性の多様性についての講演をしに行く学校から、メールがきた。
「講演のタイトルを決めたいのですが、何か案はありますか?」

講演の依頼は2種類ある。
まず、とりあえず、LGBT研修をしないといけないなぁ、というぼんやりとした気持ちから検索行動をはじめて、良い講師いるよ~(あるいは、安くやってくれる講師いるよ~、ぐらいのものかも知れないが)というコース。この場合、あまり、講演のタイトルは、決まっていないことが多い。これが8割。あとの2割は、テーマが決まっていて、「『教育現場におけるLGBTの理解と配慮』というテーマで話して欲しいのですが…」などといった感じで依頼がくる。
そうして、たいていの場合は、タイトル決めにおいて、やや厄介なのは前者なのである。

「『正しくない 』 LGBT講座−みんなで『幸せ』になるための世界で一番、優しい哲学の授業−」
なんてどうでしょう?

とちょっと恥ずかしくなるような副題を付けて、提案してみた。『正しくない』と括弧付けでつけているかというと、私の講演そのものが、『正しい』『正しくない』とは何かを考える授業だからだ。

私や多くの性の多様性を語る講師は、講演に行くとき、呼ばれるときに、先生や教育委員会によって、理想的なゲイ像を演じなくてはならない。なぜなら、彼らが誰を人権講師として選ぶかの決定権があるからである。つまり、彼らが本当に理解不能な人は呼べないのである。人権侵害を相当に受けているような人々は、人権学習の授業にもかかわらず、呼ばれない。そこの構造的な最大の矛盾がある。私たちは、自分たちの理解を超えた他者を、本当に受け入れることができるのか。今の体制ではそれは無理なのである。本当に理解不可能な他者は、構造的に排除される。私は、だから先生に、教育委員会に気に入られるように、「正しい」ゲイにならなければならない。

子どものときは、同性愛嫌悪で苦しんだけれども、カミングアウトして理解されて、今はパートナーと一緒に暮らしています。

という、そういった像を彼らは求めている。「ありのままに生きていきることが大切!」校長先生が、最後、そういった的はずれなまとめに入ったりすると、私は途端に笑い転げそうになる。性の多様性の授業から、性のニュアンスは抜け落ちて、「私は異性愛者と一緒なんです、ただ、好きになった相手が同性だっただけで」といった型にハマったくだらない言説を垂れ流すしかないのか。

…というようなことを私は、やりたくないので、好き勝手に講演をしている。白雪姫を登場させて、やれ王子様は死体愛好だの同意せずにキスしちゃってるって、これはレイプじゃない?だの言う。電車の中で、見知らぬきれいな/好きなタイプの人が寝ていても、あなたはキスしないよね?しちゃダメだよ、という。私の知り合いにスニーカーに欲情する人もいるし、それは素晴らしいことだよという。他にも、あなたが想定するLGBTはどんなLGBT?と問い、乱交するゲイやセックスワークをするトランスジェンダーはその中に入っている?と聞く。多数派が理解可能な人を選ぶという構造的なことも説明しながら、私は、有名な「バッド・フェミニスト」(Gay, 2012)よろしく、「バッド・ゲイ」、『正しくない』ゲイなのだ。付き合っていても他の人とセックスできるし、彼氏とはオープン・リレーションシップだし。3Pした経験はあるし、なんなら、4Pだってある。同性婚は求めていない(むしろ婚姻制度の解体を求めている)し、セックスはベッドの上だけでやるもんだとは思っていない。1980年代にすでに明瞭に、ゲイル・ルービン (Rubin, 1984)が指摘しているように、性には『正しい』性と『正しくない』性がある。それに昔は心理的に苦しくて、今は幸せなんて口が裂けても言えない。今だって、超苦しい。『正しい』ゲイらしく、おしゃれでもなければ、ジムで筋肉を鍛えているわけでもない。
もちろんそんなゲイばかりではない。ゲイも一枚岩ではない。ゲイであることの共通点よりも、他にも私は、マジョリティな側面もマイノリティな側面もたくさんあり、他のアイデンティティに引きづられることの方が多い。そういった諸々のことを説明したいから、私は、『正しくない』LGBT講座、というタイトルにしているのだ。それでも私は、『正しくない』ゲイです!と自己紹介をすることを通して、『正しい』ゲイ像を笑い飛ばしたいし、その『正しさ』の作られ方を常に子ども達と、また、先生と一緒に考えたいと思っている。『正しくない』ゲイです、とはっきり言うことによって、『正しさ』の浅ましさや、別の”守ってやってもいいよ”的な規範性が浮き彫りになるのだ。

とまぁ、こんなに長々とメールで、講演タイトルの意図を説明することはできないので、まぁ、いいかと思い、送信ボタンを押す。
そして、数日後。
まさか修正が入ると思っていなかったのだけれども、修正が入った。メールをそのまま引用するのは、躊躇するので要約すると、つまりはこういうことだ。

『正しくない』と付けることによって、インパクトは出ると思うのですが…
『正しい』や『正しくない』という土俵に敢えてのせる必要性を感じないので、「 LGBT講座−みんなで『幸せ』になるための世界で一番、優しい哲学の授業−」でもよいですか?

というものだった。
インパクトのためにタイトル決めてるわけではないんすけどもー
と思いながらも、どう返信しようかと迷う。生徒のことを分かっているのは、おそらく先生の方だし、なるほど、わかりにくいのかも知れない。きちんと意図を説明したら、納得してくださるだろう、と思いつつも、まだ、お会いしたことのない方なので、長々とメールを書くのも面倒だし、向こうにとっても抑圧的だし、タイトルごときで電話をするのも気がひける。
はぁ。
こういう瞬間がすこぶる面倒なのである。
「ちょっと変なタイトルだけれども、まぁ、何か意図があってのことかもしれないし、これでいこうか」
と思ってくださっていたのならば…
なんて虫のよいことを思いながら、いや、対話だよ、必要なのは、とも思いながら、悩む。
だって、「 LGBT講座−みんなで『幸せ』になるための世界で一番、優しい哲学の授業−」って超絶ダサくないですか?
最終的に、私は、『正しくない』にはこういう想いがあったのですけどねぇ、とネチネチ数行で書きつつも、
「シンプルに『LGBT講座』にしましょうか!」と再提案する。

『正しくない』という『正しさ』にこだわりすぎてもいけないではないかなと送ったあとに反省する。
気持ちよく依頼してもらっておけばよかったのにねぇ、と。
そうやって、講演前から、すでに講演ははじまっているのである。

Gay, R. (2012). Bad feminist. The Virginia Quarterly Review, 88(4), 88.
Rubin, G. (1984). Thinking sex: Notes for a radical theory of the politics of sexuality. Social perspectives in Lesbian and Gay Studies; A reader, 100-133.



にじいろらいと、という小さなグループを作り、小学校や中学校といった教育機関でLGBTを含むすべての人へ向けた性の多様性の講演をしています。公教育への予算の少なさから、外部講師への講師謝礼も非常に低いものとなっています。持続可能な活動のために、ご支援いただけると幸いです。