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木村泰子さんが教育実習のときに書き留めたノートのお話

2年前の1月に、某中学校で行われた木村泰子さんの講演を拝聴しました。
ちょっとしたきっかけがあって、そのときのメモを読み返してみたところです。

以前何度かFacebookでは投稿していますが、せっかくなので、こちらでもシェアしますね。

(録音、撮影は不可でしたので、ノートのメモ書きから起こした内容を綴ってあります。ですから木村泰子さんの発言は一字一句正確なものではありません。
僕のメモ書き+僕自身の心に刻まれた木村泰子さん発するメッセージが融合したものですのでご理解ください。
木村泰子さんにはメールで送り、読んでもらっており、Facebook等に掲載してもOK、とのお返事をいただいています。)

「不登校のレッテルを貼られる子ども。不登校の子どもがいるのが当たり前の空気。今の日本の空気です。」

「この当たり前を問い直さなければならないと私は思います。不登校の子のためだけでなく、その周りの子のためにも、当たり前を問い続けなければなりません。」

ここからは木村泰子さんが小学校の教師になるまでのエピソードが。

中学校の体育の教師になれれば良かった。

短大時代はそのために水泳ばかりしていた。
友達が小学校教諭の免許も取っておくと良いよとすすめてくれてたが。

しかし、気が進まなかった。

だってな、私の小学校の先生のイメージは(たまたま当たりが悪かったのか、私が悪かったのかはわからないが)「子どもをイジメるんや」というイメージ。

平気で人の心をズタズタに踏みにじる。

人権も何も無い。

罰は当たり前。

小学校の先生?

あんなもん、無い無い。

なりたくない。

免許なんて必要ないから、いらんわ。

中学校での教育実習に行ったら、大人気に。
子たちがチヤホヤしてくれて、凄く気分の良い実習だった。

当時は小学校の先生が足りなかった。
免許があっても、まあいいか。

調子に乗って小学校の教育実習にも行ったらば。

まったく違った!

1970年。
5年2組に2週間。

私を指導してくれるはずの榊原先生は、と言えば!

話もしてくれない!

教えてもくれない!

いたたまれない時間が過ぎていく。

居場所も無い。

仕方なく教室の隅で授業のノートをとる。

1日の授業の記録をひたすら綴るだけ。

40人いる子たちも私を相手にしてくれない。
中学校みたいに、チヤホヤしてくれない。

レポートにまとめる。

教卓に置く。

しかしハンコなし。
ペンもなし。

なんなんや、これは?

実習が終わる日、教頭先生が数人いる実習生の中から、私だけを呼んだ。

そしてこう告げた。

「あなたは誰よりも幸せや。榊原先生は授業の神様やから。」

えっ?
はあ?
なんなん?

どういうことなん?

それから2週間後。

突然、学校に赴任することになった。

それも、中学校ではなくて、小学校!

私は知らない!

小学校の授業の仕方なんて!

中学校の体育の先生になるはずだったのに!

あるのは、あの2週間に書いた大学ノートだけ!

一冊綴りきったあの変な先生の授業ノートだけ!

どうする?

わたし!

小3の担任をいきなり持った!

わからないなりにとにかくやった!

最初の参観日も全力で!

終わりを告げるチャイムが鳴ると、何と保護者たちは校長室へ押しかけた。

「あの先生はなんやねん!」

「あんなわけのわからん先生が子どもに授業してええんですか?」

「やめさせてください!」

映画の中で、パワハラ校長だった私は(笑)、子どもを怒鳴り散らした若い先生に「こんなんしてたらクビや」と言いましたが、今から50年近く前に、私自身が、短大を出たてで小学校に赴任させられた私が、授業参観日に保護者からクレームを浴びせられ、クビになろうとしていました。

「みなさんは、1970年代の日本の教育はどんなだったと思われますか?学校に行く目的は?当時の日本社会の学校へのニーズは何だったと思いますか?どうぞ遠慮なくご発言ください。」

木村泰子さんは教室二つを繋げて110脚の椅子が置かれたフロアにササっと割って入り、数人の方にマイクを向けました。

「企業戦士の、育成。」

「経済の、成長。」

「そうですね。戦争のあと、世界に追いつけ、追いつけ。いや、追い抜け、追い越せ、でした。そうしたニーズは学校にも向けられました。学校に行く目的は、さらに良い学校へ。良い企業へ。そういう目的を達成するために、そういう社会に合うような義務教育が、なされていました。」

木村泰子さんはそんな時代に、突然、小学校の教師にさせられた。

中学校の体育の教師になることしか考えていなかったのに、小学校教諭の人数が足りなかったこと、小学校教諭の免許を持っていたことから、市から小学校に赴任せよと命じられた。

初の授業参観で保護者たちから

「あんなわけのわからん先生が授業をするなんて!」

と校長室に乗り込まれて、クレームを告げられた。

ほんの2週間、小学校で実習をしただけ。

話をしてくれない、何も教えてくれない、添削もしてくれない、コメントも書いてくれない、ハンコも押してくれない、そんな指導教諭の下での実習。

授業内容をひたすら綴った大学ノートしか持たない木村泰子さんは、小3の教室でどんな授業をしたのか?

クレームをつけた保護者は

「たった一つの答えしか、45分間で一つの答えしか教えんかった!隣は二十個ぐらい、問題を解いていたのに!」

と校長に言ったそうだ。

木村泰子さんは思った。

わたしはあれしか知らない。
わたしはあのやり方しか、知らないのだ。

たった2週間の授業記録が唯一のバイブルなのだ。

あの授業しか見ていない。
あの授業だけ見て、わたしは先生になってしまったのだ。

あの授業は。

榊原先生のあの授業は。

榊原先生のあの授業を記録した大学ノートには。

『教え方』ではなくて『学び方』しか書いてなかった。

子どもたちは、わーっとみんなが賑やかに喋り続けて、動き回っている。
どの子ができて、どの子ができないかも、わからない。

小数点。

2.3+4.5は?
どうやって足すんやろ?

点をとればわかるねんな。
点をとればいつもの足し算や。

とってみる?
とってみて。

23+45は?
えーと、えーと。
簡単や、68や。

教室のあちこちから、いろんな声が聴こえる。

ずっと、ずっと、賑やか。

無駄なこともする。
話はそれる。

しかしそのうちに、同じ答えが揃い出す。

どうやらこれが正解なんか?

てことは?

算数ができる子、できない子。

混ぜこぜになって自分たちで探究して求めたひとつの答えは、あらゆる扉を開ける万能の鍵となる。

大人の顔色を見ながら、大人の都合にあわせて、腑に落とさずに矢継ぎ早に20問を解くよりも、子たちの未来に繋がる尊い学びとなる。

子ども同士で学んでいたらOK。

子どもの姿だらけでOK。

喋って学びあいしていたらOK。

子どもの姿しか見えなくてOK。

短大生だった木村泰子さんのたった2週間の小学校での実習期間に、一冊のノートに書き留めた榊原先生の授業は、そういうものだった。

木村泰子さんはノートにつぶさに書いた。
榊原先生の授業をそのまま書き写した。
それをそのまま実践した。
他に知らないから、木村泰子さんはそうするしかなかった。

20年後に、あの保護者たちが望んだような授業をする先生たちは困ってしまった。

1990年。

文科省が方針を変えたから。
今まで良しとしていたことを文科省が自らひっくり返したからだ。

一方的に教え込む授業をやめよ。
見える学力だけを追うな。

「しかしわたしはまったく困りませんでした。」

「榊原先生は10年、20年先を見越して授業をしていたからです。」

「"社会が変わった社会"でそのまま使えるような、そんな学びを榊原先生は授業で促していたからです。」

先輩先生に校舎裏に呼び出された!

壁ドン!!

「あんた、生意気や!」

「子どもら、ワーワー!」

「毅然とやらなあかんねんで!」

「指揮、命令、号令の下に子どもは動くもの!」

しかし、子どもが学びに納得して家に帰るから、保護者クレーマーはなかなか現れなかった。

保護者対応なんて知らなかった。

わたしは次第に、自信を持つようになった。

7年後。

わたしは初めて転勤した。

浮いた。

とても浮いた。
新しい学校でわたしは、とても浮いてしまった。

浮いたわたしは、評価されたくなった。

良い教師でありたいな。
良い評価がされたいな。

何でこんなに、周りの先生と違うんやろ??

初めての転勤先で浮いてしまった木村泰子さんは、次第にこんなことを思うようになってしまったそう。

"良い教師でありたい。"

"良い評価がされたい。"

小学校の教師になって10年経ち、ブレかけた自分に気づいた木村泰子さんは「原点を思い出そう。」と考えた。

短大時代のたった2週間の教育実習の際に綴った、恩師 榊原先生の授業記録を読み返すことにした。

レポートを提出してもコメントを書いたりハンコを押したりしてくれず、話しかけてもまともに相手にしてくれず、何も教えてくれなかった榊原先生。

ひたすら、子ども同士で学びあいをする授業だけを見せてくれた榊原先生。

10年前の自分が書いたノートを一枚一枚めくっていく。

読み終えようとしたときに、裏表紙に見慣れない文字が書いてあることに、木村泰子さんは初めて気づいた。

それはとても薄く書かれた文字だった。

ん?
何なん?

榊原先生が書いたものだった。

流れる水の如く
流れにのって流れるのは容易い

流れに逆らうのは困難を極める

どちらが尊いだろうか

というような意味のことが、そこには書かれていた。

木村泰子さんは自分がブレかけていたことに気づき、ノートを久々に開いたが、書いてから10年を経て榊原先生からのメッセージを発見した。

榊原先生は木村泰子さんが、水の流れに逆らうように、当たり前とされていることを問い直しする教員になるだろうことを、実習のときから予見していたのかもしれない。

木村さんはこのメッセージをきっかけに、ブレかけていた自分をブレない自分に戻すことができたとおっしゃっていた。

さて、これより先は、映画『みんなの学校』に登場する子どもたちのエピソードを交えながらの話となった。

「特性のある子たち。」

「多様な子たち。」

「そうした子たちについての大人のつぶやき。ほんの一瞬見せる表情。」

「それらを他の子たちは敏感に感じ取ります。」

そして木村泰子さんはゆっくりと、しかしキッパリと、言った。

「先生による、子ども同士の関係性を分断する不用意な発言や態度・・・。」

「それが原因で排除されてしまった子どもに、言わなくてもいいことを言わせてしまったり、しなくてもいいことをさせてしまうことが、本当に多すぎませんか?」

「大人の不用意さによって厄介者扱いされる子。親は『うちの子が申し訳ありません。』と謝る。こんな負の流れが、厄介者扱いされた子だけでなく、周りの子の力をも奪うんです。」

「いったいどれだけの子たちの力を奪ってしまっているのか?」

「本当によく考えた方がいいです。」

「『この子さえいなければ』とか、『家庭にも問題があるんじゃないか』とか、そういう気持ち、本音。自分の中にそういう情けないものがある、ということを認めることから、わたしたちは始めなければなりません。」

「誓約書を書かされたんですって。卒園式や入園式には欠席させます、という。『来賓が来るから休ませろ。』という意味でしょう。」

「子が100人いたら100とおり。」

「普通、っていったい何ですか?」

「『普通のことができない私は生きている価値がない。』と子が思い込んでしまうような、残酷な追い込み方。」

「子どもは弱者。大人の支配下にいないと生きていけない。親や先生に従うしかない。」

「親や先生にも言えないことが言える、他人の存在が大事。ナナメの関係性が大事。」

「文句を言えてるのは、まる。言われへんのはバツ、やばい。」

「受け入れる、というのは上から目線。異質なものだからわざわざ、受け入れる、と言うてしまうんです。」

「その日、特別な支援が必要な子は、誰か?」

「指導を振りかざしてはいけません。指導は一瞬で暴力に変わります。」

「力では学びの本質はもう、1ミリも産まれません。」

「学級崩壊を力の指導で収めようとしたら、子どもたちは苦しさから一人の子にストレスを向けた。ストレスのはけ口にしてしまった。」

「教師が自分一人だけで仕事をしていたら、子を殺しかねないです。」

「その子がなぜ相手を殴ったのか?罰するより先にそれを知らないと、その子との関係性を維持することはできません。」

「先生の指示をきく子がいい子なん?」

「目に見える学力だけつけてどうするん?10年後に通用しない子にしてどうするん?」

「今の子どもは他人と自分を比較することはするが、自分の中で自分ができるかどうか自問するのは苦手。」

「子どもは安心したら、前を向ける。」

「子どもは安心して『わからん』と言ったら、わかる。」

「子どもは安心したら勝手に力をつけます。なりたい自分になり、多様な社会に生きられる子になります。」

「自分から、自分の言葉を自分らしく語れる子に。」

「親や先生に言わないのは、子どもが優しいから。言うことで何かを否定することになると、知っているから。」

「子どもと子どもを繋ぐことが、教師の専門性かな、って。」

「10年先に必要な力をつけること。」

「学校の主語は、子ども。」

「学校は先生たちが学ぶところでなく、子どもが学ぶところです。」

「来賓は上に奉る存在ではなかったはずです。過去は、みんなと一緒に、対等に、学校のために、子どものために、頑張った人たちが、そう呼ばれたはずです。」

「やり直しはいつでもできる。やり直しをすれば未来は変わります。」

「先生は風。地域は土。学校は地域のもの。子たちは自分がしてもらったようなことを地域にする。」

「先生は風。先生はいつかはそこを去る者。風の分をわきまえろ。」

「人のせいにしないで、子の学びを育てよう。」

「どうしたらこの子が困らないようになるんだろう?と考えよう。」

「みなさんの中に多様を認める空気が無かったら、全ての子の学習権は保証できません。」

「見えない学力とは?わたしは4つの力だと思っています。・人を大切にする力 ・自分の考えを持つ力 ・自分を表現する力 ・チャレンジする力 です。これらは先生の言うことばかり聞くように育てたら、身につきません。」

(いかがでしたか?自分が書いた雑なメモながら、読めばいつも胸に熱いものがこみあげてきます。木村泰子さんのお話をまた直に聴ける日が待ち遠しいです。
本来でしたら昨年3月に、豊田市にお招きして、子どもアドボカシーをテーマに対談する予定でしたが、新型コロナウイルス感染拡大の影響で叶わず、8月にいったん延期しましたがそれも断念しました。
木村泰子さんとはメールでやりとりを続けています。
お話会の予定が組め次第、あらためてみなさまにご案内します。)

木村泰子さんのプロフィールなど
https://gendai.ismedia.jp/list/author/yasukokimura

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