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チェーホフ『かもめ』と没落しない「貴族」

 アントン・チェーホフの戯曲『かもめ』(1896年初演)を主人公のコンスタンチン・ガヴリーロヴィチ・トレーブレフの作家としての才能という点を軸に論じてみようと思う。(使用テキストは岩波文庫版 浦雅春訳)

 第一幕でトレーブレフは母親で女優のアルカージナの兄のソーリンの庭園に設えた仮設舞台で自身が執筆した芝居を上演しようとしている。トレーブレフは母親の恋人でもある小説家のボリス・アレクセ―エヴィチ・トリゴーリンに対する対抗意識もあって、「現代の演劇なんて、たんなる決まり事、それこそ偏見のかたまりにすぎない(p.14)」「必要なのは新しい形式なんです(p.15)」と考えているのだが、ニーナを主演にした芝居は「(小声で)なんだかデカダンじみているわね(p.28)」などと言う母親の横やりに我慢できずにトレーブレフ自らすぐに幕を下ろしてしまう。

 「あれは、やれ新しい形式だ、芸術における新時代の幕開けだという高飛車な物言いじゃない。私に言わせりゃ、あそこに新しい形式なんてありません。あるのはたちのわるい冗談だけ(p.32-p.33)」と考える母親は全く息子の才能を認めていないが、「トレーブレフ君、私は君の芝居がたいそう気に入ったよ。なんだか妙ちくりんで結末も聞いてはいないが、実に感銘深かった。君には才能がある、これからも書くべきだね(p.41)」と言う医者のドールンもいる。

 第四幕はそれから二年後になる。トレーブレフはペンネームを使って作家として活躍しており、ニーナもトリゴーリンとの間に子どもができたものの亡くなってしまい、今は地方を巡業しながら女優として活動している。
 しかし母親のアルカージナとトリゴーリンと比較するならば、ニーナとトレーブレフの活動は本人たちが思い描いていたものとはだいぶかけ離れた感じである。若者二人が必死になって努力している傍でトリゴーリンは釣りを楽しみ、アルカージナはロト・ゲームを楽しんで全然余裕なのである。

 何故このような「格差」が生じてしまったのか? そこでキーとなるのがタイトルの「かもめ」なのである。本作においてかもめは「理想」の暗喩として機能している。トレーブレフは「かもめ」を撃ち殺してでも手に入れたいのである(p.63)。ところがトリゴーリンも「かもめ」に興味を示し、いとも簡単にニーナ(「私はかもめ」p.140)を自分のものにしてしまうのだが(p.75)、すぐにニーナを捨ててしまうのみならず、自分がかもめの剥製を欲していたこともすっかり忘れているのである(p.134)。

 この二組のアイロニカルな対照性が『かもめ』を喜劇にしているのである。