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「真面目か!!!」 国民性を語ることの陥穽について

 イギリスの作家E・M・フォースター(E. M. Forster)の評論に「イギリス国民性覚書」(『フォースター評論集』 小野寺健編訳 岩波文庫1996.2.16)というものがあり、論旨がいまいちよく掴めない点があったので、最初にその部分を長いが引用してみる。

 ジェイン・オースティンを権威として持ち出すのは妙だと思われるかもしれないが、オースティンにはそれなりの、イギリス人の知性にたいする洞察力がある。オースティンには限界があって、その登場人物はけっしてそうひどい罪を犯しはしない。だが、彼女は行為という問題になると仮借ない目をもっていて、『分別と多感』の冒頭の数章には、二人のイギリス人がまちがった行為に乗りだすに先立ってまず自分を騙してかかる古典的な例が出てくる。老ダッシュウッド氏は亡くなったばかり。氏は二度結婚して、最初の結婚ではジョンという息子を、二度目では三人の娘をもうけた。息子は金持ちだが、娘三人とその母親 ー ダッシュウッド氏の二度目の妻はまだ存命なのである ー の暮らし向きはよくない。ダッシュウッド氏は臨終の床に息子を呼んで、義母と義妹たちの援助をすることを厳粛に誓わせた。息子はすっかり感動して約束し、妹たち一人一人に一千ポンド譲ろうと心中ひそかに決意するのだが、喜劇はここから始まる。彼からこの鷹揚な意図を明かされた妻のジョン・ダッシュウッド夫人は、自分たちの幼い息子からそんな大金を奪うことを頑として認めない。そこで一千ポンドは五百ポンドに減額される。しかし、これでもまだ多すぎる気がする。お義母さんに毎年決まった額をあげるほうが、御縁がつながる気がしない? そうだな、しかし縁はつづいてもむしろ大きな出費になりかねない、「あの人は体格がよく健康で、まだ四十にもなっていないから」。ときどき五十ポンドをあげるほうがいいんじゃないか、「お父さんとの約束は、それで充分果たせると思う」。それより、ときどき魚でもあげるほうがいいんじゃないの。そして、けっきょく何もしないのである。何ひとつ。無一文の女四人は、家具を運ぶ費用さえもらえないのだ。
 では、ジョン・ダッシュウッド夫妻は偽善者だろうか。それは偽善の定義しだいである。この息子は、自分の悪の衝動がつのってきても気がつかなかったのだ。そして妻のほうも、こちらはもっと性格が悪いにせよ、やはり自分を騙しているのだ。死んでしまった老ダッシュウッド氏には何も分からない、と彼女は考える。彼女は自分の幼い息子のことばかり考えるわけだが、母親が息子のことを考えるのは当然ではないか。彼女は自分を騙しきっているからこそ、四人の女が馬車を持てるだけの金をあたえることを一言の下に平然と拒否し、つぎには、馬車を持っていないのだから出費はかさまない、と言えるのである。自分を騙せる男女なら、よその国にもいるだろう。だが私には、ダッシュウッド夫妻の心理がいかにもイギリス的に思える。心の動きが鈍いのである ー 悪いことをするのにさえ、時間がかかるのだ。よその国なら、悪事はさっとやるものである。(p.79-p.81)

 『アトランティック・マンスリー』の1926年1月号初出のこの評論はジェイン・オースティン(Jane Austen)の『分別と多感(Sense and Sensibility)』(1811年)(中野康司訳 ちくま文庫 2007.2.10)の第一章と第二章に関することである。ヘンリー・ダッシュウッド(=老ダッシュウッド)は臨終の床で息子のジョン・ダッシュウッドにジョンの義理の母親と三人の妹たちへの援助を約束させて亡くなり、当初はジョンは4人に対して贈与するつもりだったのだが、妻のファニーの口車に乗せられて結局近所付き合い程度の親切を施せばいいという結論に至るのである。しかしここで注意するべき点は、義理の母親と三人の妹たちはフォースターが書いているように決して無一文ではなく、ヘンリーが自由にできた遺産七千ポンドと先代から娘たちに遺贈された三千ポンドを合わせた一万ポンドは贈与されているのである。

 明らかにフォースターは『分別と多感』を誤読しているか、あるいは捉え方が真面目過ぎると思う。ここでオースティンが描いていることは妻に言いくるめられた、「少々心が冷たくて、自己中心的なところがあるが、それを性悪と言わないとすれば、けっして性悪な人間ではない、人並みの義務をきちんと果たし、いちおうみんなから尊敬されている(p.10)」夫が最終的に義理の母親と三人の娘たちにびた一文も払わなくなってしまうというアイロニー、つまり冗談なのであるが、オースティンのアイロニーをフォースターは時間をかけるイギリス的な「悪事」と定義しているのである。

 しかしフォースターがオースティンを誤読するようなことがあるだろうかとすぐに疑問が湧いてくる理由は、『ロンドン・コーリング』1949年5月26日号の「言葉を愛する者の書斎」と題されたエッセイで以下のように書いているからである。

 好きな本というのは好きなプディングと同じで説明のしようがありませんが、私にはたしかに三人、手をのばせばいつでも読めるように、どの部屋にも置いておきたい著者がいます。それはシェイクスピア、ギボン、ジェイン・オースティンの三人です(『フォースター評論集』「私の書斎で」p.273)。

 三本指に入るほど大好きな作家の小説を「誤読」するとは思えないのである。だから思わず叫んじまったのであるが、フォースターは1941年5月29日のケンブリッジ大学リード講演においてヴァージニア・ウルフに関して以下のように語っている。

 彼女にとっては、文学は研究対象であると同時にメリー・ゴーラウンドでもあったのです。そのために、作品が読んで楽しいものになると同時に、彼女を芸術の宮殿に籠もらせずにすんだのです。ときどきバカな真似をしたくなるのでは、宮殿に籠っているわけにはいかないではありませんか。テニソン卿はそうは考えませんでした。ご存じのとおり、彼の救済法は、全人類がそこに住んでいっせいに真面目な態度になれば、宮殿は清められるだろうというものでした。ヴァージニア・ウルフは、もっと簡単で健全な解決策を見つけたのです(p.219-p.220)。

 フォースターが冗談のたぐいに理解があることが推察できるのである。そうなると同国人でありながら、何故フォースターがオースティンのアイロニーを捉え損なっているのかがますますわからなくなってくるのだが、もしもフォースターが意識的にしろ無意識的にしろオースティンの小説の中にキャラクター以上にイギリス国民を求めてしまっていたのならば、理屈が合うように思うのである。