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ウィリアム・フォークナーの短編小説について

 ウィリアム・フォークナーは代表作となる長編小説を次々と発表するものの、当初はほとんど売れず、だから映画監督のハワード・ホークスを介して映画脚本を手掛けたらしいのだが、個人的に思うことは、フォークナーの小説の登場人物は黒人やネイティブアメリカンや女性や子供などいわゆる「弱者」が主で、彼らが白人男性に迫害されている様子が描かれているために、多少の後ろめたさがあるアメリカ人はわざわざフォークナーを読みたいとは思わなかったように思う。
 しかし必ずしも登場人物だけで判断されたわけでもなく、例えば、日本で読めるフォークナーの短篇小説はどれもスリラー作品として楽しめることは間違いないのだが、そのテクニックの秀逸さでどの作品も、「伏線」まみれの前半の方は読んでいても時空が急に変わったりして何が起こっているのか意味が取れない。それはまるで映画のようで、だからホークスはフォークナーに脚本を書かせたのだと思うのだが、後半になってようやく全容が把握できるのである。映画ならば頭にイメージが残っているから良いのだが、小説はもう一回前半を読み直してみなければ分からない。だから短篇ならばそれでも良いのだが、記憶力が良くなければフォークナーの長編小説は読むのが大変なのである。
 フォークナーの難しさはアメリカ人の読者も同様な感じで、アメリカの批評家であるマルカム・カウリー(Malcolm Cowley)が長篇、短篇に囚われず的確に編集した『ポータブル・フォークナー(Portable Faulkner)』(1946年)の上梓によりフォークナーは再発見されたのである。

 訳者の龍口たつのくち直太郎が興味深いエピソードを披露している。

 筆者がトルーマン・カポーティに会ったとき、この人は「エミリーにバラを」のトリックを一笑に付していたが、私は必ずしもそれに同調するものではない。最後のクライマックスがあまりにも巧みに仕組まれているので、よく非難を受けるようだが、これはたんにショックを与えるための技巧ではなく、そのような結末が生み出される必然性が十分に準備されている、と私は考える。

『フォークナー短編集』p.279-p.280

  トルーマン・カポーティがどのような意図で一笑に付したのかは分からないものの、確かに「エミリーに薔薇を(A Rose for Emily)」はフォークナーの短篇の中ではゴシックホラー的で比較的わかりやすく、カポーティの「一笑」にはそのような意図があったように思うし、わかりやすいからこそ「エミリーに薔薇を」はフォークナーの短篇小説の代表作になっているように思うのである。

 因みに新潮文庫の『フォークナー短編集』に収録されている作品は、

「嫉妬(Jealousy)」(1925年)
「赤い葉(Red Leaves)」(1930年)
「エミリーにバラを(A Rose for Emily)」(1930年)
「あの夕陽(That Evening Sun)」(1931年)
「乾燥の九月(Dry September)」(1931年)
「孫むすめ(Wash)」(1934年)
「クマツヅラの匂い(An Odor of Verbena)」(1938年)
「納屋は燃える(Barn Burning)」(1939年)

 中公文庫の『エミリーに薔薇を』に収録されている作品は、

「赤い葉(Red Leaves)」(1930年)
「正義(A Justice)」(1931年)
「エミリーに薔薇を(A Rose for Emily)」(1930年)
「あの夕陽(That Evening Sun)」(1931年)
「ウォッシュ(Wash)」(1934年)
「女王ありき(There Was a Queen)」(1933年)
「過去(Was)」(1942年)
「デルタの秋(Delta Autumn)」(1942年)

 個人的には「クマツヅラの匂い」と「ウォッシュ」がお勧めである。