記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

石原慎太郎の『生還』について

 新潮文庫版で最後まで残った石原慎太郎の作品は1956年上梓された『太陽の季節』と1987年8月号の「新潮」に掲載され、1988年9月に上梓された『生還』で、平林たい子文学賞を受賞している。文庫が手に入らなかったので、文藝春秋から出版されている『石原慎太郎の文学』という全集を図書館で借りて読んでみた。(以下、ネタバレを含む。)

 主人公の木原は家業の薬屋を継いで生薬の健康食品が当たって会社の業績を上げた40代の社長である。ところが最近になって胃痛が酷くなり知り合いの東京獣医畜産大学の教授の田沼に相談したところ、紹介状を書いてもらい大学病院で診察してもらったのだが、三件目のT大病院に入院して二週間もすると薬の副作用でさらに苦しくなって来る。実は木原はT大の主治医の沖山教授から言づかった田沼に宛てて書いた手紙を盗み読んでいて、自分が末期の胃癌であることを知っていたのである。
 入院していた病院から抜け出してきた木原は田沼に会いに行き、動物実験では癌を治せた田沼特製のコハク酸を試そうと決心し、妻の律子と二人の子どもとも連絡を絶ち、友人から三浦市の小網代こあじろ湾にあるシーボニアのリゾート・マンションを借りて三年半を孤独に過ごしたおかげで癌を克服したのである。
 ところが「生還」してくると妻は友人の川野と交際しており、妻に別れを告げられる。木原は妻と別れることになるのだが、律子と子供たちの関係も良好なまま新しい家庭を築くことになるのである。
 さて、再婚するにあたって自分の健康が心配になった木原は約六年振りにT大で健康診断を受けたのであるが、担当医に何の問題も無いと告げられる。自分は末期の癌を患っていたはずだと木原が訴えたために、昔のカルテが見つかり次第、木原に知らせるということになる。
 ところが半月ほどして病院から届いた手紙には「古いカルテを照合したが、手遅れの癌という記述は載っておらず、病状は胃の潰瘍であり、入院してからの投薬はただの胃腸薬であった(p.133)」と記されているだけだったのである。これは木原ではなくても読者も驚く展開で、真実はどうだったのか確かめてみると、「田沼がいった通り病院の医師たちは末期の癌患者にするべき処置をいたずらに重ねていただけでしょう。(p.21)」と木原が推測しているだけで、どの医師も木原が胃癌だと言っていないのである。つまり早とちった木原がさらに田沼にからかわれたのである。本文には具体的には書かれていないが、田沼は自分が動物の飼料のために手がけているある薬品を、転じて人間の健康のためにも役立てられるはずだという信念があり、その点で意見が合わなかった社長の木原を排除したかったという動機があったのである。どうりで試薬であるにも関わらず田沼が定期的に木原の様子を見に来ることもなく、癌の治療中なのに酒が飲み放題というのもおかしな話だということはもっと早めに気づくべきであった。
 『生還』は傑作といって良いと思う。