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マックス・ヴェーバーは「犯罪者」?

 ある日、学校から帰ってきた娘が訊ねてきた。
「マックス・ヴェーバーっていう犯罪者知ってる?」
 マックス・ヴェーバーという名前のドイツの社会学者の著書は読んだことはなかったものの、名前だけは知っていたので、
「ルイ・アルチュセールならば誰もが認める犯罪者だけれど、マックス・ヴェーバーも何かやらかしていたのかな?」と応じたら、
「これ」と言って娘が見せた本の表紙には「マックス・ヴェーバーの犯罪」というタイトルが書かれていたので驚いて、ページをめくってみると「それほどまでにマックス・ヴェーバーの『資本主義の精神』という概念は、ヴェーバーによる二重・三重の詐術を内に含んだ、人の心を惑わす呪われた概念なのである。」という文章が目に入った。個人的には「人の心を惑わす呪われた概念」なるものを一度でいいから書いてみたいと思ってみたりするのだけれど、そんなことは今日において許されないらしい。書きたくても書けないけど。
 当時、青森県立保健大学教授の羽入辰郎が2002年に上梓した『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房)に端を発し、それに東京大学名誉教授の折原浩が異を唱え、いずれも未來社から『ヴェーバー学のすすめ』(2003年)、『学問の未来――ヴェーバー学における末人跳梁批判』(2005年)、『ヴェーバー学の未来――「倫理」論文の読解から歴史・社会科学の方法会得へ』(2005年)、『大衆化する大学院―― 一個別事例にみる研究指導と学位認定』(2006年)と4冊の批判書を上梓した、いわゆるドイツの社会学者のマックス・ヴェーバー主著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を巡る「羽入・折原論争」と呼ばれる激論が起こったようなのである。(最近東京大学名誉教授の渡辺浩が上梓した『日本思想史の現在』(筑摩書房 2024.1.18)で取り上げられていたが、ごく簡単な言及だけだった。)その後、2008年に羽生は『学問とは何か 『マックス・ヴェーバーの犯罪』その後』(ミネルヴァ書房)を上梓し、(羽入の宿敵である)橋本努は2019年に『解読 ウェーバー 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」』(講談社)を上梓し、(羽入の天敵である)折原は2022年に『マックス・ヴェーバー研究総括』(未來社)を上梓し、羽入と折原に関して言えばミネルヴァ書房と未來社の代理戦争を呈しながらいつの間にか終わった感じになっているようなので、羽入書を知ってしまったついでに個人的に分かりやすくまとめてみようと思っているのだが、ここで言う「分かりやすく」とは筆者の知性に合わせるという意味であり、テクニックを駆使してなどという大それたものではなく、まして『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を解説するわけでもないことを予めお断りしておく。読みやすくするために脚注も最小限にとどめておく。

 とりあえず些末なことを確認しておく。羽入は折原について以下のように記している。

 折原浩氏は、かつての大学紛争の頃、東大当局を批判した造反ぞうはん教官として有名な方でもある。紛争後も三年半、授業再開を拒否して、駒場での授業をやらなかった。但し、その間も給料だけはもらっていたが、当時は銀行振り込みではなかったため、奥様に事務まで取りに行かせていたそうである。(『学問とは何か 』p.1)

 妻に給料を出納すいとう課に取りに行かせ、自分では取りに来ない、その卑怯ひきょうな態度に義憤ぎふんを覚えた教官たちは数多くおり、あのときの折原氏のことはいまだにかたぐさとなっている。また、あそこまで東大当局を批判された方が、今になって「東京大学名誉教授」という肩書きをどうして平然と御受けになったのかも、筆者には理解できない。(同書 p.2)

 しかし『マックス・ヴェーバー研究総括』には以下のように記されている。

 さて、一九六九年の晩秋、東大駒場キャンパスには、「解放連続シンポジウム『闘争と学問』」(通称「連続シンポ」)が開設されました。西村秀夫・信貴辰喜・石田保昭氏ら、一貫して教授会と当局に批判的だった教員(教授会メンバー)と、助手共闘の最首悟氏らに、小生も加わり、東大全共闘が主張していた「大学解体」を、(文字どおりにはいかにも無理なうえ、原理原則に照らしても問題なので)当面「大学解放」と読み換え、かつての「安田講堂」(事務部門は封印のうえ、一般市民にママ放されてはいた「自由な空間」)と同じように、誰にでも開かれた「広場」として、一般市民に開放したのです。(p.32-p.33)

 このように折原はシンポジウムを開いたり、「各地の闘争現場に出掛けていったり(p.34)」しており、自分自身で給料を取りに行く暇がないほど忙しかったのである。(「妻に給料を出納課に取りに行かせた」という話は羽入は引用元を明示しておらず、文章では確認できなかったのだが、東大内では有名な話なのだろうか?)

 その後、小生は、一九七二年の秋(後期)から、いかんともなしがたい政治状況の推移(「正常化=旧態復帰」)を見据え、その状況に、(例の「作風」によって)①「徹底抗戦」、②「辞職」、③「授業再開」という三選択肢を対置し、それぞれの利害得失を予測ー秤量し、問題として提起しました。そうして、幸いにも、文系ー理系を問わず、全学的に議論を呼び覚まし、継続するなかで、小生自身としては、「一九六八ー六九年東大闘争」における問題提起と、それを担って応えていける学内の「批判的抵抗派」の拠点の維持と継承、加えては、学生諸君との接点の回復を、最優先課題として選択し、正規の演習を再開し、教授会にも復帰しました。(p.42)

 以上のように折原には少なからず東大を改革したという自負はあるだろうから、むしろ自分こそ「東京大学名誉教授」という肩書きが相応しいと思っているのであろう。

 ところで残念なことに『マックス・ヴェーバー研究総括』には羽入の『学問とは何か 』に対する反論が載っておらず、読んだかどうかも分からない。とりあえず『マックス・ヴェーバーの犯罪』に対する反論を書き出してみる。

 ところが、羽入書は、「諸種のキリスト教聖書とルターやフランクリンの『原典に当たってみた』が、ヴェーバーは『第一次資料』には当たらず、その種の『杜撰』ないし『ごまかし』を隠蔽する『詐欺』をはたらき、『知的誠実性』の要請をみずから裏切っている」(趣旨)と主張したのです。もとよりそれは、当人の読解不足と浅慮を露呈する謬論ではありました。たとえば、「旧約外典『ベン・シラの知恵』中の二語 ἔργον と πόνος を、ルターがことの弾みで beruff と訳し、そこから、(『俗世の職業』と『聖な召命』との二義を併せ持つ)Beruf 相当語彙が、ヨーロッパ系の全『言語ゲマインシャフト』に、各々の『ベン・シラの知恵』を経由し、そこを起点として一律に普及した」という突飛な想念(「唯ベン・シラ回路説」「ルター発『言霊伝播説』」)に囚われ、凝り固まって、「ヴェーバーは第一次資料に当たらず」「『コリントⅠ』七:二一の κλησις 〔召す〕を持ち出して誤魔化した」などと強弁し、「世界初の大発見」と自画自賛し、なんと『マックス・ヴェーバーの犯罪 「倫理論文」における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』と銘打って、論壇に放ったのです。(p.137-p.138)

 「羽入・折原論争」は問題が多岐にわたっているので、ここでは「Beruf」概念を巡る問題に焦点を絞って論じてみようと思うのだが、その前にもう一つ確認しておきたいことがある。

 『学問とは何か』には驚くべきことが書かれている。

 筆者よりも先に、ヴェーバーが“Beruf”として引用している人物がいる。沢崎堅造さわざきけんぞうである。この本の第二校をしていた時(二〇〇八年一月)、何か新しい寄稿きこうでもっているかな……と思い、何となく橋本努ホーム・ページ上の『羽入 - 折原論争』を開けてみたら、上田悟司うえださとしという方の論考ろんこうが新たに載っていた。読んで驚いた。戦前の段階で、ヴェーバーが“Beruf”と訳されていると主張した「コリントⅠ」七・二〇がルターによっては“ruff”としか訳されていないことを発見した人物がいる、というのであるから。あわって、アマゾンで検索し、二万円以上もする古書であったが、即、買った。(p.192)

 筆者は“Beruf”-概念に関する議論に関して、筆者が世界で最初の発見者であるという主張をここで取り消す。沢崎堅造が世界最初である。(p.194)

 ところで、橋本努の『羽入 - 折原論争』のホーム・ページで沢崎を紹介した上田悟司という方は、一体どうして沢崎のこの業績を知っていたのか。筆者の『思想』論文を読んだ「数ヵ月後 、たまたま、古書店で、この沢崎氏の御著書を知り、『ああ、これこれ』と気付き・・・」(橋本努HP:上田悟司「『ウェーバー論争へのコメント200712』二頁」)と書いているので、以前から知っていたようなのである。そして、そのことを『思想』編集部へ書き送った、と記してあるが、筆者は『思想』編集部から、そういう話は一切聞かされていない。恐らく上田氏が想像するように、「編集部段階でにぎりつぶされたかしたので」あろう。
 マックス・ヴェーバーをたった一人で批判することはこわいことである。どんな間違いが自分の側に隠れているか、分からないからである。九年前の段階で、先達者せんだつしゃがいた、ということを聞かされていたとすれば、筆者としては、はるかに心強く思えたであろう。こういう先達者がいた、ということを大々的に前面に押し出すことが出来ていたであろう。教えてくれなかった『思想』編集部に対しては、うらみがましい思いを今では抱く。『思想』に載った論文が世界で初めての発見ではなく、その先達者せんだつしゃがいた、ということが分かったとしても、学問的には何ら問題はないのである。学問とは事実と論理のみの世界であり、誰がそれを先に発見しようと、それは学問そのものには一切関係はない。(p.195-p.196)

 「学問とは事実と論理のみの世界であり、誰がそれを先に発見しようと、それは学問そのものには一切関係はない。」ということは間違いないことではあるのだが、問題なのは学者としての羽入の知的誠実性(intellektuelle Rechtschaffenheit)の「信頼度」の低下であることを羽入は分かっていないと慮ってくれる人なら良い方で、実は羽入は沢崎堅造の『キリスト教経済思想史研究』(未來社 1965年)の存在を知っていたが、どうせ誰も知らないであろうと高を括っていたと見なされても文句は言えない立場に置かれているのである。羽入は妙に他人に厳しいわりには、過度に自分自身には甘く、だから『思想』編集部に無視されたのも、羽入に人望がなかったせいであろうと容易に想像はつく。

 最初に『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の成立過程を今野元の『マックス・ヴェーバー 主体的人間の悲喜劇』(岩波新書 2020.5.20)から引用してみる。

 ヴェーバーの論文の第一章は「カトリックの劣等性」の話題で始まる。バーデン大公国を対象とした門下生M・オッフェンバッハ―の博士論文に基づき、ヴェーバーはプロテスタントが経済活動でカトリックよりも優越しているという点を指摘した。これは宗派対立が激しいドイツでは挑発的な問題提起で、現代社会でいえば先住民や移民の知能を数値化にて喧伝するようなものだろう。О・バウムガルデンが宗派混住地域(ヴァルトキルヒ)の牧師だったため、この論点にはヴェーバーが十年以上も前からこだわっていたが、当時H・シェル(ヴュルツブルク大学)やG・v・ヘルトリング男爵(ミュンヘン大学教授、のちのバイエルン首相、伯爵、帝国宰相・プロイセン首相)らカトリック側の論客も、改善に向けて議論していた。ヴェーバーは、彼らの「改革派のカトリシズム」が求める教会の変革を「この界隈の(全く無益な)希望」と呼んで憚らなかった。ヴェーバーは、その原因が両宗派の精神構造の違いにあると考え、プロテスタンティズムの理論家たちに目を移している。ヴェーバーによれば、ルターが導入した「職業」(Beruf)概念には、英語の calling のような神から授与された使命という合意があったが、ルターは世俗権力や所与の生活条件への服従を説いて、「伝統主義」(特に問題がなければ従来通りでよいとする惰性の精神)に陥った。ヴェーバーは「資本主義の精神」の代表例として、「誠実さは他人の信用を得るのに有益である」というB・フランクリンの処世訓を引用した。そこでは営利活動は物質的欲求のための「手段」としてではなく、純粋に「自己目的」として遂行されており、中国や古代ローマ、あるいはJ・フッガー(カトリック)に見られる守銭奴根性とは違う、倫理としての性格を帯びた合理主義の思考が見られるのだという。このように集団意識が資本主義を生んだという発想は、「観念」は経済状況の「上部構造」に過ぎないとするマルクスの唯物史観への対策でもあった。(p.76-p.77)

 1904年から1905年にかけて『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を執筆し、『社会科学・社会政策誌』という雑誌に掲載されるまでのマックス・ヴェーバーの精神状態を野口雅弘の『マックス・ウェーバー 近代と格闘した思想家』から引用してみる。

 一八九七年七月、ハイデルベルクの家に母を誘うも、父が付き添ってきた。母が一人で旅行することも許さない父に、マックスは腹をたてる。母に対する父の態度には、長年不満をもってきた。憤慨したマックスは、父と大げんかをする。父親は六〇歳で、息子は三〇歳を超えている。親子の関係性が変化して当然の頃合いである。一般論としては、こうした親子げんかはそれほどめずらしいことではない。むしろそれを経由することで、一定のバランスの回復がなされるのが通常であろう。ところが、立腹した父はその一ヵ月後、旅先で急死してしまう。和解の機会は永遠に失われ、やり場のない喪失感がウェーバーを襲う。そしてこのことがトリガーとなり、あれほど旺盛だった研究活動ができなくなる。もちろん大学の授業もできない。この心の病のため、彼はその後、数年にわたって各地を転々とし、療養生活を余儀なくされる。(p.58)

 今野元の『マックス・ヴェーバー 主体的人間の悲喜劇』からも引用しておきたい。

 父の死の衝撃からの癒しを求め、妻マリアンネと一八九七年八月二七日から一〇月四日までフランス・スペイン旅行をした彼は、帰国して不眠に悩むようになった。学期末の疲労感に危惧を懐いた彼は、一八九八年三月一九日に大学同僚の精神科医E・クレベリンの診察を受け、年末の過労ゆえの神経衰弱であり、「理性的な生活」を送るようにとの指示を受けた。ヴェーバーは妻や長弟とレマン湖畔で三週間静養し、恢復したように見えたが、新学期に再び体調を崩した。(p.64)

 結局ヴェーバーは、一九〇三年一〇月一日に常勤正教授職を退いて、「名誉正教授」となり、年金も受け取らないことにした。(p.65)

 「名誉教授」(Honorarprofessor)とは授業を引き受ける場合もある官職だが、ヴェーバーの場合は引退も同然だった。野崎敏郎が強調するように、それは高齢で引退した教授を顕彰する「名誉教授」(emeritierter Professor)の称号とは本質を異にする。ヴェーバーは「名誉教授」になることで、大学から完全撤退したわけではない。ヴェーバーは文部省から提案されたこの職に乗り気ではなく、それを受け入れる場合にも学部での「居場所と発言権」の保持を切望したが、学部側は許容しなかった。周囲に迷惑や心配をかけ、自己都合で辞める以上、今後大学運営に口を差し挟むのは僭越だ、とは考えないのが、ヴェーバーの性分である。結果的に、彼は以後ハイデルベルク大学での教育活動を一切行わず、一九一八年のヴィーン大学への試行的出講を除けば、授業再開は一九一九年にミュンヒェン大学に移ってからだった。ハイデルベルク大学の授業一覧にはヴェーバーの名前が残ったが「非開講」の記載が続いた。ヴェーバー・クライスでの若手との交流は、「名誉正教授」の授業ではなく、私的対話でしかない。(p.66)

 さて、ようやく『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』を論じてみようと思うのだが、ところで『プロ倫』とはどのような本なのか橋本努の『解読 ウェーバー 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」』から引用してみる。

 まずこの本は、正確にいうと、本ではない。もともと二回に分けて連載された論文であった。それがのちに加筆修正されて、『宗教社会学論集』という大きな本の一部に収録された。だから『プロ倫』というのは、ドイツでは本ではなくて論文、あるいは大きな本の一部として位置づけられている。日本では単独の本として出版されているので、私たちは本とみなすようになった。
 それでも『プロ倫』は、『宗教社会学論集』のなかでも比較的独立したスタイルで書かれているので、これを取り出して読む価値があるだろう。『プロ倫』は、プロテスタンティズムの倫理から、どのようにして資本主義の精神が生まれたのかを解明している。ウェーバーが書いた社会学のなかでも、とびきり面白い部分である。
 ところが『プロ倫』におけるウェーバーの主張は、どうも中核的な部分で、よく分からない。ウェーバーは、プロテスタンティズムの倫理が、その「意図せざる結果」として、資本主義の精神を生んだ、と言っているように見える。けれども他方で、ウェーバーは、「プロテスタンティズムの天職倫理」と「資本主義の精神」がほとんど同じだとも見ている。いったいどちらが正しいのだろうか。(p.22-p.23)
(因みに「禁欲的プロテスタンティズムの倫理」と「禁欲的プロテスタンティズムの天職倫理」は違うということは直接橋本著に当たって欲しい。)

 ここで筆者のような素人は考えてしまう。そもそも研究対象になっている『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、1904年から1905年にかけて執筆された論文の方なのか、それとも加筆修正されて1920年に刊行された『宗教社会学論集』第一巻の一部を指しているのか?
 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の大塚久雄訳の岩波文庫版には「Max Weber DIE PROTESTANTISCHE ETHIK UND DER ≫GEIST≪ DES KAPITALISMUS, Gesammelte Aufsatze zur Religionssoziologie, Bd. 1,1920, SS. 17-206」と記されており、中山元訳の日経BP社版と、戸田聡が『宗教社会学論集 第一巻 上』(北海道大学出版会 2019.5.31)として翻訳したものは、「Max WEBER. Gesammelte Aufsatze zur Religionssoziologie. vol. 1, Tubingen: J.C.B. Mohr (Paul Siebeck). 1920」が底本だと記されており、違いがよく分からない。

 ところで羽入が問題とした点を『マックス・ヴェーバー「倫理」論文を読み解く』(キリスト教史学会〔編〕 教文館 2018.9.10)に掲載されている『「倫理」正誤表』から書き出してみる(因みに『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の論文と『宗教社会学論集』に掲載された改訂版の経緯は大西晴樹による解説が載っている)。

                

 ルッターによる「ベン・シラの知恵」のこの箇所の翻訳は、私の知るかぎりでは、ドイツ語の≫Beruf≪が今日の純粋に世俗的な意味に用いられた最初の場合だ。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 大塚久雄訳 岩波文庫 1989.1.17 p.103)

                正

 ルターは Beruf という言葉に職業という意味を与えなかった。

              訂正の根拠

 Beruf という言葉に注目してルターの著作を検討した結果、今日われわれが職業という意味でルターが Beruf を使用した箇所を見出すことはできなかった。「ベン・シラの知恵」 11: 20, 21 でルターが世俗的活動を意味するポノス、エルゴンを Beruf と訳したからといって、Beruf を職業と解するのは早計である。ルター自身、当時 beruf という言葉を使っていたが、その意味は命令、召し、立場、職務、従順などで、職業とまでは行きつかなかった。(……)沢崎堅造は、「ベン・シラの知恵」 11: 20, 21 に言及し、ルターがもし原義に忠実なら、その Beruf は決して近代的意義の活動的労働を意味しない。状態、地位、身分を重んじるところの考えに近いと解している。沢崎堅造著『キリスト教経済思想史研究』 未来社、1965年、52-54頁。

 引き続き、『学問とは何か』から引用してみる。

 ルターは、本来は「純粋に宗教的な概念」だけに用いられるはずであった“Beruf”と言う訳語を「ベン・シラの知恵」一一・二〇、二一における二つのギリシャ語 ἔργον [発音はエルゴン。意味は「働き・仕事」ー羽入]と  πόνος [ポノスと発音する。意味は「労苦ろうく・仕事」ー羽入]とを訳す際にも、この二つのギリシャ語は純粋に世俗的な意味しか持っていなかったにもかかわらず、用いてしまった。言い換えるならばルターは、元来は「世俗的職業」という意味をしか含んでいなかった二つのギリシャ語 ἔργον [エルゴン]と πόνος [ポノス]に対して、奇妙なことにも、純粋に宗教的な概念だけに普通は用いられるはずだった訳語“Beruf”をすっぽりとかぶせてしまったこと、こうしたルターのこの言わば意訳いやくから、宗教的な観念ばかりか「世俗的職業」という意味をも含み入れた、あのプロテスタンティズムに特有の“Beruf”という表現が生まれたのであり、そして正にこれこそがルターの創造であったのである、と。
 ではルターは、かたや宗教的、かたや純粋に世俗的という「二つの……全く異なる概念」を、相互に訳し分けることなしに、なぜまた“Beruf”という同一の語で訳してしまったのであろうか? それが次の疑問となる。(p.181)

 この後に羽入は説明しているのであるが、『プロ倫』の解説ではないし、難しいので普通はあり得ないのだが説明はスキップする。

 ここまでのヴェーバーの論証を見てすぐに目敏めざとく気づかねばならぬことは、おや、ヴェーバー、ここで説明出来ているのは「ベン・シラの知恵」一一・二一の πόνος [ポノス]だけであって、「ベン・シラの知恵」一一・二〇の ἔργον [エルゴン]に関しては何も説明出来ていないな、ということである。こういうところは気がつかなければいけない。何しろ今我々が相手にしているのは、百年間嘘を見破られなかった稀代きだい詐欺師さぎしなのである。その証拠に、このわずか十行後[「社会科学および社会政策雑誌」に載せられた初版判の『倫理』論文で。『宗教社会学論集』に収められた、改訂版では十六行後 ー 羽入]ではもう、ヴェーバーは何食なにくわぬ顔をして「なぜなら一方ではルターは『ベン・シラの知恵』における πόνος と ἔργον を今や“Beruf”と訳したのに対して……」とまるで双方に関して証明がすんだかのような言い方をし始めるのである。こういうことはヴェーバーの場合多い。よほど気をつけていないとだまされるという良い例である。(p.183)

 ここで不思議なのだが、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の「初版判」とか「改訂版」とか持ち出して羽入は批判しているのであるが、何故1920年の「完成版」のみを議論の対象としないのかが分からない。まるでヴェーバーが訂正や修正したことも見逃さずに批判していくというのであるならば、羽入が正しいとしてもヴェーバーが気の毒なような気がしてくるが、アカデミズムではよくあることなのであろうか?

 しかし今は πόνος は説明できたとしておきたい。では ἔργον はどのように説明できるのか? 『マックス・ヴェーバーの犯罪』から引用してみる。

 「ベン・シラの知恵」のヘブライ語原典は、ヴェーバー自身も一九一九 - 二〇年の改訂時に加筆した文章中で述べている(大塚訳九六頁)ように、ルターの時代の頃はまだ未発見であった。発見されたのは一八九六年であり、AfSS版前半部(一九〇四年)を用意した時点では、ヘブライ語原典における「ベン・シラの知恵」一一・二〇、二一の部分をヴェーバー自身もまだ目にし得ていなかったと思われる。ヘブライ語〔写真①〕が「『ベン・シラの知恵』のギリシャ語テキストの πόνος と ἔργον」の双方の「疑いもない原語である」とヴェーバーが思い込んでいたのは、そのためであると考えられる。
 しかしながら一九一九 - 二〇年の改訂時までの間に、ヴェーバーはルドルフ・スメント(Rudolf Smend)の著書『ベン・シラの知恵』(Die Weisheil des Jesus Sirach)から、“πόνος”に対するヘブライ語原典での原語が〔写真①〕ではなかったことに気づいたと思われる。
 ヘブライ語原典ででの原語に対するギリシャ語訳での訳語の実際の対応関係は、スメントによれば次の〔以下〕ようなものであった。

『マックス・ヴェーバーの犯罪』 p.115

 「ベン・シラの知恵」一一・二一における③の部分のヘブライ語テキストはかなり壊れており、スメントはこの部分を〔③〕(Smend 1906: 13. 〔〕内はスメントによる補足。)と解釈し、“und warte auf sein 〔=Gottes〕Licht”(「そして彼の〔=神の〕光を待ち望め」)と訳した。したがって③の箇所におけるギリシャ語テキストにおける訳語“πόνος”は、ヘブライ語原典とは全く対応しないこととなる。
 結局、前掲対応表からも明らかとなるように、AfSS版『倫理』論文におけるヴェーバーの元来の主張であったヘブライ語〔①〕とギリシャ語“ἔργον”と“πόνος”との対応関係は、一一・二一における“ἔργον”及び“πόνος”のいずれにおいても成り立たず、対応関係が成立するのはかろうじて一一・二〇における“ἔργον”のみということになる。(p.114-p.115)

 なお、ヴェーバーがAfSS版において、ギリシャ語に関する叙述部分を、元来は
「ギリシャ語には、このドイツ語〔=“Beruf”のこと〕に倫理的色彩の面において相当する表現は全く欠けている。ルターが現在の語法と全く一致して(下記を見よ)『ベン・シラの知恵』一一・二〇、二一において“bleibe in deinem Beruf”と訳している箇所を、七十人訳は一方では ἔργον と、他方では πόνος と訳していた」(大塚訳九七頁)
という明確な文章で書き始めていたにもかかわらず、RS 版では“πόνος”の直前に確弧して、
「もっとも原文が全く壊れてしまっていると思われる部分においてなのだが(ヘブライ語原典においては、神の助けの輝かしさについて語られているのに!)」(大塚訳九七 - 九八頁)
という、何を言わんとしているのか一読しただけではわけが分からぬ奇妙な挿入句を入れざるを得なかったのも、右の事情が反映してのことであることが分かる。(p.116)

 同じ箇所を中山元訳から引用してみる。

 ギリシア語には、ドイツ語のベルーフと同じような倫理的な意味をもつ言葉はまったくない。ルターは「シラ書」一一章二〇節と二一節を、現在の語義と同じ意味で「汝の職務ベルーフにおいて」と訳しているが、七〇人訳では最初のところをエルゴン[仕事]と訳し、第二のところは原文がまったく損なわれていると思えるが、ポノス[苦労な業]と訳している(ヘブライ語の原文ではここは、神の手助けの輝かしさが称えられているところなのである)。(p.124-p.125)(因みに「シラ書」の当該部分の全文を引用してみると、「契約をしっかり守り、それに心を向け、自分の務めを果たしながら年老いていけ」〔一一章二〇節〕「罪人が仕事に成功するのを見て、驚きねたむな。主を信じて、お前の労働を続けよ。貧しい人を、たちどころに金持ちにすることは、主にとって、いともたやすいことなのだ」〔一一章二一節〕『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』中山元訳 日経BP社2010.1.25 p.509)。

 しかしヴェーバーの言葉に一理あると感じる理由は、πόνος(ポノス)の訳として「彼の光を そして待ち望め」と訳されているヘブライ語①と ἔργον(エルゴン)の訳として「仕事・務め」と訳されているヘブライ語③が、原書ではないから正確には分からないものの、よくよく見るとスメントの補足の捉え方次第では似ていなくもないからで、ここでヴェーバーは「ἔργον(仕事)」と「πόνος(神の手助けの輝かしさ)」が結びついたと「早合点」したように思うのである。
 そもそもマックス・ヴェーバーの膨大な注がついた論文を、いわゆる一般的な「学術論文」と見做していいものなのか? 「考えて書く」のではなくまるで「書きながら考える」ようなヴェーバーの資質はマルクスよりもニーチェに近いものであろう。さらに言うならば『プロ倫』の中途半端な感じはハイデッガーの未完の大著『存在と時間』を想起させるものである。
 そもそも、そもそも渡辺浩が指摘するようにヴェーバーは中国語を理解していないのに『ヒンドゥー教と仏教』を上梓したりしているのだから「様子」がおかしいのは誰が見ても明らかで、羽入が言うような「稀代の詐欺師」というよりも確信犯、あるいは「天然」と言った方が良いような気もする。ヴェーバーのメタファーとして有名な「ゲホイゼ(Gehäuse)」が「鉄の檻(iron cage)」と訳されたように、ヴェーバー自身が迷惑を被っているケースもある(本人は気づいていないだろうが)。

 羽入の引用の仕方に関しては、茨木竹二・いわき明星大学名誉教授が『「倫理」論文解釈の倫理問題 特に、『マックス・ヴェーバーの『犯罪』における“不正行為”をめぐって』(時潮社 2017.7.10)が指摘しているので、一例を挙げてみる。最初に羽入の『マックス・ヴェーバーの犯罪』(ミネルヴァ書房 2002.9.30)から。

 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』というのは、その題目の内に含まれている二つの要素の間に何らかの違いが存在しており、これら違いを有する二つの要素のうちで、後者の要素[=「資本主義の精神」]が前者の要素[=「プロテスタンティズムの倫理」]からいかにして由来したのかということを、すなわち、“宗教的基礎付けを今では全く欠いてしまった今日の職業禁欲”[=「資本主義の精神」]がいかにして、“そうした宗教的基礎付けをかつて有していた禁欲”[=「プロテスタンティズムの倫理」]から生まれたのかということを探究しようと努める限りにおいてのみ論文としての意味を持つのであって、もしも「宗教的基礎付けを欠く……」という条件を前者[=「資本主義の精神」]が満たさぬとするならば、その時前者[=「資本主義の精神」]は後者[=「プロテスタンティズムの倫理」]と同じものとなるであろう。その場合二つの要素の間には何らの違いも存在しないこととなる。ヴェーバーがよく言うような「不注意な読者 liederliche Leser」には、『倫理』論文というのは単なる同語反復的論文という誤った印象を与えかねぬ、とさきに述べたのはこの意味においてである。(p.208)

 茨木の反論を引用してみる。

 なるほど、そのように羽入は「倫理」論文の表題に、その“全構成・論証の全行程”が集約されているのを、いかにも察知しているかのようである。しかし、“今日の職業禁欲”とは、先にみたように、ヴェーバーによりフランクリンの「職業道徳」において「例示」された「資本主義の精神」の“(形式的)要素”であれば、またそこから「貨幣の増殖を義務と感じる」として抽出されたかの「職業義務の思想」も、特に上記「倫理」論文の「問題」で、「〈職業〉思想」として指示されていることから、むしろ“かつて〔の〕職業禁欲の要素”なのである。しかも、それについては更にヴェーバーにより、元元「カルヴァン・長老・清教徒派」の「蔵言」22.29の「解釈替え」に帰される「慣用語」calling が、とりわけ「認識根拠」として「引照」されたのであった。それゆえ、そうした「禁欲的プロテスタンティズム」の「職業倫理」こそは、正に“後者の要素が由来した前者の要素”に、他ならないのである。(p.266)

 文章が難解なのだが、中山元訳の『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』から関連する文章を引用してみる。

 これらの文でわたしたちにお説教しているのはベンジャミン・フランクリンである。フェルディナント・キュルンベンガーは、才気と悪意に満ちた著書『アメリカ嫌い ー アメリカの文化像』でこれを、「ヤンキーの信仰告白」と嘲笑したものだった。フランクリンが特有の言い回しで語っているものが「資本主義の精神」であることは誰も疑わないだろうが、資本主義の「精神」という言葉で理解されているものが、すべてここに語られているとは主張できないかもしれない。そこでしばらくこの文章にこだわってみたい。キュルンベンガーの『アメリカ嫌い』が要約した処世訓は、「牛をしぼって牛脂を集め、人間をしぼって金を集める」というものだが、この「吝嗇の哲学」の特長は、人に信用される立派な人柄という理想であり、何よりも自分の資本を増やすことを自己目的とするのが各人の義務であるという思想である。
 実際にはここで語られているのは、たんなる処世の技術ではなく、特異な「倫理」である。これに違反するのは愚かしいことであるだけではなく、ある種の義務の忘却とみなされているのである。それがこの「精神」の本質とされているのだ。ここで教えられているにはたんなる「仕事をするための賢さ」のようなものではない(こうしたものはどこにでもみつけられる)。ここでは一つのエートスが語られているのであり、わたしたちが興味を抱くのも、このエートスの特質なのである。(p.49)

 つまり『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は羽入が言うように「資本主義の精神」が「プロテスタンティズムの倫理」からいかにして由来したのかということを、すなわち、“宗教的基礎付けを今では全く欠いてしまった今日の職業禁欲”[=「資本主義の精神」]がいかにして、“そうした宗教的基礎付けをかつて有していた禁欲”[=「プロテスタンティズムの倫理」]から生まれたのかということを探究しようと努める限りにおいてのみ論文としての意味を持つのではなく、実はその逆もまた真と見なせるからこそヴェーバーは『プロ倫』でその「アポリア」を解こうと悪戦苦闘しているはずなのである。

 橋本努も以下のように指摘している。

 『プロ倫』の主張は、よく次のように理解されがちである。すなわち、「資本主義の精神は、プロテスタンティズムの倫理から生まれた」のだ、と。誤りではないが、しかしこのように単純に理解すると、誤解が生まれてしまう。「いやいや、資本主義の精神はプロテスタンティズムの倫理以外にも、多様な経路で生じてきたはずだよ。だからウェーバーの言っていることは誤っているよ」と。(p.130)

 さらに茨木は『「倫理」論文解釈の倫理問題 特に、『マックス・ヴェーバーの『犯罪』における“不正行為”をめぐって』の序章で以下のように記している。

 周知のことと思われるが、羽入辰郎の“「倫理」論文批判”や“ヴェーバー避難”が、当該研究分野を騒がせ、また間もなく特に折原浩がそれらに対し矢継ぎ早に反論を展開したことは、未だ記憶に新しい。そしてそれら“批判ー反批判”の反応は、更に『日本マックス・ヴェーバー論争』の形をとり、編集者によってその継続が呼びかけられたが、その後何ら応答がないところをみると、どうやら途切れてしまったようである。と同時にまた、羽入には氏の“批判”の元となっていた諸論文にたいし、既に学位や学会賞等が授与されていたとのことであったので、おそらくそれらの権威や名声によってであろう、例えば日本社会学会では、それまで時には10題ほどに及んだ大学院生はじめ若手ヴェーバー研究者の報告も、ここ5,6年全く途絶えてしまった。(p.93)

 羽入は『学問とは何か』において以下のように記している。

 折原に問おう。貴兄に倫理学科の院生指導の是非などを問う資格がそもそもあるのか。貴兄の陰湿いんしつとしか言いようのない院生いじめは、貴兄の先輩教授からなげかわしいものとして筆者は直接聞いている。「五十年の研究歴/四十年の研究指導歴(とくに古典文献講座ゼミの経験)」(『学問の未来』一三五頁)と豪語ごうごするが、では四十年マックス・ヴェーバーの研究指導をしてきて、貴兄の相関社会科学学科から一体何人のヴェーバー研究者が育ったのか。
 今、貴兄の周囲にいる若手ヴェーバー研究者は、貴兄が育てた研究者では全くない。今、貴兄が一番可愛がっている橋本努は、貴兄にとっては不倶戴天ふぐたいてんの敵、松原隆一郎まつばらりゅういちろう氏が育てた研究者である。(p.36-p.37)

 確かに折原は若手ヴェーバー研究者を輩出させられなかったのであろうが、映画『仁義なき戦い』を彷彿させるような暴言が飛び交った「羽入・折原論争」を見させられた若手研究者たちに研究のみならず研究者自身の「性根」まで厳しく問われるようなフィールドを敬遠させてしまった罪は羽入にもあるのではないだろうか。本来ならばその内容からして羽入は「犯罪」シリーズとして『学問とは何か』ではなく『東京大学の犯罪』とするべきだったと思うのだが、怯んだのか? その後、特に語学に堪能なはずの羽入の研究や翻訳などの実績も見当たらないのだが、疲れたのか? 二人とも?