“この割れ切った世界を変えたい” 米国の名門大学に渡った山邊鈴の決意
長崎県出身の山邊鈴さんは21年9月、米民主党のヒラリー・クリントンや蒋介石の妻・宋美齢などの卒業生がいる米屈指の名門・ウェルズリー大学に進学した。「小さな声を拾い、社会の仕組みを作る人になりたい」という想いの背景を聞いた。
コロナウイルスの第2波に警戒感が高まっていた2020年8月、ブログ投稿サイトnote に公開された『この割れ切った世界の片隅で』という記事が大きな話題になった。書き出しはこうである。
「コロナウイルスが社会に与えた最も大きな影響は、見えづらかった社会の分断を可視化したことではないでしょうか。ステイホームできない、明日を生きるのすら精一杯な人。パソコンを持っておらず、家では完全に社会から隔離されてしまう人。勉強ができるような家庭環境でない人。外で遊ぶ自分を自慢げにSNS に載せる人。『クラスターフェス』と称し、コロナに積極的にかかろうとする人。感染者を引っ越しにまで追い込む地方の村社会。普段暮らしているとそのような人と出会わない、という人が殆どでしょう。だけど、これが、今の日本社会なのだと思います」(『この割れ切った世界の片隅で』note 記事より)
作者は当時18歳、長崎県の諫早高校に通っていた山邊鈴さんだ。
社会への違和感 生きていることの脆さ
コロナ禍ではマスクをつけるか否か、飲食店では時短要請に応じるか否かといった、正しさと正しさのぶつかり合いがあらゆるところで起きた。在宅勤務ができる仕事とできない仕事の間での不公平感も充満した。その背景には経済格差などの問題も横たわる。未知のウイルスの襲来は、同じ社会で暮らす私たちの間にある分断の形をより鮮明にした。
そんな中で公開された山邊さんの記事は、多くの人が「思っていたけれどうまく言葉にできなかった違和感」を代弁していたのかもしれない。
「小学校に入学するより前から、そういった社会に対する違和感のようなものには敏感でした。それはたぶん長崎出身ということも関係していると思います。“家の中にいた自分は助かったけど、家の外にいた妹は死んでしまった”とか、被爆された当事者の方から原爆の話を聞く機会が多かったんですけど、壁の向こう側とこちら側で運命が変わったり、同じ長崎でも生まれた時間が違えば私は今ここにいない可能性もあったんだよなとか、ふと家でラーメンを食べている時にもそんなことを思ったりして、生きていることの脆さというものをずっと感じてきました。だから、何か理不尽なことが誰かに降りかかっているのを見ると、それはあの子のせいじゃないという想いがいつもあったんです」
幼少期を県営住宅で暮らし、市内の公立の小学校に通った山邊さんは、『この割れ切った世界の片隅で』を書くきっかけとなった記憶を、別の記事で次のように振り返っている。
「英単語を覚えていると、手元の赤シートの色の鮮烈さにある記憶がよみがえって来たのです。男の子が赤シートを得意げに小学校に持ってきました。「なんに使うと?」「赤ペンが消えるとばい!」「へー! すごか!」「ほかに使えんとかな?」みんなで赤いものを探して教室をぐるぐる。あ! あった!! 教室のうしろのロッカーのランドセルです。あててみると、光るものと光らないものがある。どうやら光っていたのは地元を仕切るある大手企業の子がもらえるランドセルだけだったのです。後にも先にもあそこまではっきりと色として認識されたことは無いなぁと感じ、じゃああのランドセルに詰め込まれた記憶を文章にしてみようと思い立ちました」(『この割れ切った世界の片隅で を読んでくださったすべての方へ』note 記事より)。
https://note.com/__carpediem___/n/n74e3e756f99f
多かれ少なかれ大半の人が、家庭環境をはじめ、格差を感じたことがあるのではないだろうか。そして最近では「親ガチャ」という言葉もあるように、それを「越えられない壁、変えられない現実」として捉えているのではないだろうか。だが山邊さんは、生まれた環境で全てが決まってしまう社会なんておかしいと思い続け、自らの手でその現実を変えたいと、迷いながらも自分が信じる道を進んできた。
「中2の時は、将来は国連職員になって世界の貧困問題に取り組みたいと思っていました。でも実際に国連に足を運んでみると、その外にはホームレスの方々がいて、その光景を見て混乱しました。自分はただ赤いリップを塗ってパンツスーツを着たいだけなのか、本当に貧困問題の真っ只中にいる人たちのために働きたいのか。その気持ちを確かめるためにも、まずはその中に飛び込んでみないといけないと思ってフィリピンに行きました」
そのフィリピンで「自分が見たい社会に向けて人生を捧げる人でありたい」という想いを強くした。高2の時にはインドにも行った。
「スラム街で遊ぶのが好きだったんですけど、そこにいる子どもたちはカーストが低いという理由だけで上流階級の人に顔を蹴られたりするんです。でもみんな「こういうもんだから」とやり過ごすんですね。それを見て、もうちょっとできることがあるじゃん! って悔しくて。その時に勿体無いとかこうあるべきなのにどうしてそうなってしまうんだろう? という気持ちが自分を動かしていたことに改めて気づいたんです。その悔しさとか勿体無いという気持ちが自分を構成しているのだとしたら、色々な記憶を引っ張り出して、一度言語化してみようと高3であのnote を書きました」
進路の理由と将来像
現時点での将来像を聞くと、「政治家……ですかね」と少し迷いながら答える山邊さんは今、アメリカにあるウェルズリー大学にいる。どうしてアメリカの大学で学ぶ道を選んだのか。
「行動に見合う中身を身につけたいという想いが強いです。 “長崎出身の女子高生”とか “18歳”とか、わかりやすいラベルがつくことによって、自分はまだ全然中身が伴っていないのにお仕事をいただいたり、若者代表みたいな感じで政府の会議に呼ばれて意見を伝えてくださいと言われたり、それが怖かったというか、このまま先に進んではいけないという気持ちがありました。それにこれまで、私は直感とか内省的なところを起点に物事を考えて行動することがほとんどだったんですが、政治経済や歴史など、アカデミックなことをしっかりやっておかないと近い将来限界が来るという危機感もありました。正直、言葉で何かを表現したり、人前でスピーチをしたり、言葉数は少なくても会議で本質を突いた意見を言ったり、そういうことは昔から得意でした。でも、リーダーシップや何としてでも課題をやり遂げる力、想定外のことに惑わされない力といった、“筋肉質さ”のようなものを身につけないと、理想を唱えるだけで終わってしまうと思ったんです」
ジャーナリストとして社会問題を世に知らせる、活動家として運動するなど、社会が抱える課題を解決するための手段にも、さまざまなものがある。しかし彼女の口から「政治家」という具体的な言葉が出た理由は何か。
「抜本的な解決……なんか言葉が政治家みたいですけど(笑)、根本のところをどうにかしないとこの社会は変わらないと思っています。ジャーナリストとして声を届ける人だったり、草の根の活動をする人だったり、それぞれ大切な役割だと思うんですけど、これまでに私が感じてきたこととか見てきたこと、その中にある怒りや苦しみとかを思うと、根本的なことを変えるための役割を担えるようになりたいと思ったんです。「私の声は届いているのかな、実際に世界を変えられる立場にいる人に何か行動を起こして欲しいのにな」と、私がこれまで長崎という世界の片隅であげていた声に自らが応えないといけないのでは? と思うようになりました」
批判や葛藤の多い道を歩いて行くために
これまで自分の考えを文章で発信したり、実際に行動に移したりした結果、「結局、自分の正しさを押し付けているのはあなたではないか?」、「知らなければ幸せだったかもしれない人に余計な情報を与えているのではないか?」といった、批判の声も聞こえてきた。特にインドでした経験は今でもずっと心にあるという。
「インドでスラム街の子どもたちがモデルになる『スラム街のファッションショー』という企画をしたんです。カーストといった根強い階層制度があるインドですけど、特に子どもたちには、階層の外にはもっと広い世界があることを知ってほしいと思ったし、何より同じ人間なんだということを示して、そこにある差別に抗いたかった。でもこれは文化的に正しかったんだろうか? という疑問が今でも消えません。アメリカで文化人類学とかを学んでいると、私がしたことってヨーロッパのアフリカ侵略とかとも地続きじゃん……とか思ったりもするんです。それは本当にもう、すごく難しいことです。でも、『みんな同じ人間なんだよ』と示すことや『こういう考え方もあるんだよ』ということを、強制しないように知らせることが大切なんだと信じています」
文化や思想の異なる相手に新しい価値観を示す。そうして社会は進歩してきたとされる一方で、それを強要して新たな悲劇が生まれてしまうこともある。それに、別の価値観や外の世界を知らないほうが幸せな人生を送れるということもあるかもしれない。
「色々なところに当てはまる問題ですよね。国際協力界隈の方とお話しをしていても、成果を出すことを一番重要なところに置いてしまうと、それ以外が見えなくなってしまうよと言われたり、特に支援というのは成果が出るまでに何十年とかかる。それでも成果が出たかどうかもわからない。そんな世界ですけど『自分がいたほうが社会は良くなるであろうという一抹の期待を持ちながら進んでいくしかない』ということを、過酷な環境でやられている方であればあるほど言われるので、そのバランスというか、『世界を変えたい』という自己中心的なところと、相手のことを考えるというバランスが大事なのかなと思います。
あとは知らないほうが幸せだった、知ってしまったから不幸になるということもあると思うんですけど、たとえ一時的に不幸になったとしても、私はさまざまな選択肢を知っているほうが最終的には幸せになれると信じています。その自分の信念を示しつつ、相手の背景への想像力と優しさがちゃんとあるか? っていうのを常に自分に問いかけ続けていかないといけない。周りの人に影響を与えようとか変えようとか、そういったことが実際にできるって実感すればするほど、名誉だったり、自分の何かのために利用するって気持ちが生まれてしまうかもしれない。そういう恐怖心は常に持っていて、それを忘れないことが大事だなと思っています」
社会問題の解決に取り組む多くの人が悩むことでもあるだろう。一歩間違えば、自分の普通を他者に押し付けることにもなりかねない。それでも、苦しんでいる人たちは確かに存在していて、助けを求めている。
日本は世界で一番分断の少ない国になれる
「自分の普通が他の人の普通だと思ってしまうこと」
山邊さんは分断と呼ばれる現象の背景にあるものをこのように定義している。最近は「多様性」という言葉もよく聞くようになった。
「分断と多様性っていうのは紙一重ですよね。アメリカに来て感じるのは、考え方だけではなくて、人種や宗教、歴史……ここまで多様だと分断は避けられないのではないかと思ってしまいます。リベラルの人でも“あの人種差別主義者はアメリカに要らない!”みたいなことを授業中に平気で言ったりします。あとは国民性もあるんでしょうけど、みんな“主張する”ことをやめられないんですよね。それに比べればまだ日本は『対話』ができると思うんです。インドもそうなんですけど、議論して相手をどう言い負かすかみたいなところがあって、それだと結局何も生まれない」
とはいえ、コロナ禍で起きた様々な問題も含め、答えの出ない物事の白黒をはっきりつけようとする空気だったり、自らの正義を押し付けようとする空気だったりは、日本でも今まで以上に強くなっているように感じられる。
「それでも日本の分断は取り戻せると思っています。私たちの世代でなんとかできると思っているんです。それ以上に、インドやフィリピン、アメリカに来たからとかそういうわけではなく、やっぱり生まれ育った日本が好きで、貢献したいという想いが強いです。日本はまだ『対話』ができると私が思うのは、例えば夫婦別姓の話題を誰かと話すにしても『わかんないけど自由じゃない?』とか『あ〜そういうのもあるよね』みたいな感じで、ある程度相手を尊重するとか、人間の不完全さをどこか許してくれる、曖昧さみたいなものを抱擁してくれる空気を感じるんです。当然それが日本的な無関心や同調圧力につながってしまうところでもあるので、その辺は上手く解消しながら、他人に対する寛容さという良い部分だけを伸ばしていく形にして、世界で一番分断の少ない国を目指していきたいなって思います」
山邊さんの最新記事↓
掲載=THE FORWARD vol.1