見出し画像

断片:不安の楼閣

SNSが人を狂わせていくのではないか、という趣旨のお話で、それに対する対策として「より多くの人々との対話」を勧めている記事。対策の部分についてはあまり異論は無いんですが、人が「狂っていく」のは果たして SNSが原因だろうか、と疑問を感じたので、これを書いています。違うと感じるんですよね。

「ツァラトゥストラはかく語りき」で有名なニーチェの金言に以下のものがあります。

怪物と戦う者は、その過程で自分自身も怪物になることのないように気をつけなくてはならない。深淵をのぞく時、深淵もまたこちらをのぞいているのだ。

怪物も深淵もこれは比喩的な表現で、意味するところは「自分が敵とする者と戦う人は、自分がその敵とおなじような者にならぬように注意せよ。何かを観察し判断しようとしている者は、相手からもまた同じ視点を向けられているのだ(ミイラ取りがミイラになる)」と考えるのが妥当かと。今回は特に前段に注目で。何かを憎みこれを滅ぼそう/打ち倒そうと願う人ほど、実はその対象に似通ってくる、という皮肉。SNSでよく見られる話としては、他者を「ネトウヨ/パヨク」と批判して憚らない人ほど、段々と対象として批判している相手に似通ってくる、という傾向が見られます。白饅頭さんが言うところの「狂っていく人」ですね。
ニーチェがこの言葉を残した当時は、もちろん SNSはおろかコンピュータもネットワークも無かったわけですから、ニーチェが現代の姿を予見していたのでない限り、「SNSで人が狂う」という現象は SNSが本質ではなくそれを可視化しているに過ぎない、と考えるべきだと愚行します。

じゃあ「SNSが原因ではないのなら、何が人を狂わせているのか」と疑問が浮かびますが、そもそもの話「狂っているように見える人達は、果たしてほんとうに狂っている」のでしょうか。

報道ではたまに「なぜこんな事件を起こすのか。何がその人を凶行に駆り立てたのか?」という事件が報じられますが、その頻度は SNSで生じる争いや「狂っていく人」の数から見れば、誤差の範囲にすらならない数に過ぎません。SNSで大騒ぎをしている人達も、そのほとんどは他者と変わらない日常を送っているわけです。そりゃまあ、オープンレターだキャンセルカルチャーだと人様の生活を破壊するようなマネをしてシレッとしている人達も少なくはないですが、TV局や関係機関に「苦情を申し立てる(いわゆる電凸)」人達とやっていることの内実は大差ないでしょう。実際に職場を追われて苦しむ人が出ても「私達はそんなつもりはなかった」と、これまたシレッと言ってしまうところまで一般の人と変わるところはない。

SNSに現れる「狂人」は、実は私達の隣人に過ぎないのではないでしょうか。

ただ「一般の人と変わるところが無いのだから、この人達のやっていることは普通の行いなのだ」とは言えないと考えます。広角泡飛ばすように人を批判したり揶揄したり、生活破壊するまで他者を追い詰めたり、自分の考えを頑として変えようとしない、という姿勢はやはり「人としておかしい」のではないか。

何が人をそうさせるのでしょう。ここでやっとタイトルに話が行きますが、私は「不安」こそがその原因なのではないかと思います。もう少し解像度を上げていくと「自分が正しいのかどうかわからないという不安から目をそらすために、自分は正しい側にいると思い込みたい/そう振る舞いたい」と考えて行動するのではないか。

「これが正しさである」と道を示すことが存在意義である宗教一般を除くと、私達は基本的に「正しいとはどういうことかわからない」という世界に住んでいます。「いや、そんなことは無いだろう。法律や科学はどうなるんだ」と疑問を持つかもしれませんが、科学というものは原則として「今わかっていることは○○ということだけだ」と示すものですし、法律というものは絶対の正しさを示すためのものではなく「今ある社会を円滑に/あまり争うこと無く運営するため」のものに過ぎません。実際、法は常になにかしらどこかしら改定されるものですし(改憲派と批判しないでください(笑))、科学知識や技術も常にアップデートされるものですから。年配の方は今の小中学生の教科書にでも目を通してみてください。自分達が教えられていたこととはかなり違った知識が教育されていますから。

私達の社会は常に変化を続けています。30年間停滞しているという日本社会ですが、それでも生活にまつわる諸々は変化していますし、良い変化は無くても悪い変化は注意して見ればそこかしこにあるはずです。「社会とはこういうものだ」とは言いますが、実はそれは「正しく」は無いのですよ。
私達の意識はそれをきちんと認識していて、「昨日正しかったことが、もしかしたら明日とは言わないまでもいずれは間違ったことになるかもしれない」という漠然とした不安を感じているのではないでしようか。正しいと思っていたこと、社会とは人生とはこういうもの、と考えていたことが、ある日ある時を境として違ったものに変化していた経験。それが私達を不安に陥れるのでしょう。

だから、誰もが「正しさ」を求めてしまうのではないか、と考えます。何が正しいことかわからないからこそ「これが正しいことである」と誰もが認めることを求める。それを否定する者/異論を述べる者が許せない。それこそが「不安の種」だから。そういうメカニズムが働いているのではないか。

こう考えていくと、ニーチェの時代に怪物と呼ばれ、SNSの時代に狂ったと呼ばれる人達が歴史を超えて現れ続ける理由がわかるのではないか、と思います。怖いんですよ。私達は常に何かに怯え、だからこそそれを誰かに転嫁して「敵」として姿形と真名を与えて排斥することで「安心」を得ようとする。もちろんそれは擬似的な安心に過ぎないために「もっと安心を、さらにもっと安心を!」と求めざるをえない。それこそが「狂気」なんじゃないでしょうか...

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?