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読書録/壬申の乱 天皇誕生の神話と史実

◼️壬申の乱 天皇誕生の神話と史実 遠山美都男著 中公新書 1996年

 「応仁の乱」につづいて、日本の大乱について何か読みたいと思っていたところ目に止まったのがこの本だった。天智天皇が死去したのち、弟の大海人皇子と長男の大友皇子が王位継承を争って戦った内乱であり、なんといっても私の地元、大津が舞台となっているので興味をそそられた。日本100名城をめぐる中で、中大兄皇子(天智天皇)が築城させたという古代山城の巨大さに触れ、古代律令国家の持つ権力の大きさを実感した、ということもあった。

壬申の乱

 壬申の乱は古代最大の大乱といわれる。この乱を制して勝者となった天武天皇は、歴史上はじめて「天皇」の称号を用い、ここに「天皇」が誕生することとなった。また大臣をおかず、天皇自らが統治する専制政治を行ったとされている。その后だった鸕野讃良皇女はのちに持統天皇となり、天智天皇の発案による式年遷宮を始めたといわれている。一方、天武天皇の息子の一人である舎人親王を編者として、神代から持統天皇の治世までの歴史書である「日本書紀」が編纂された。 
 壬申の乱の発端から終結までについては、この「日本書紀」の記述をもとにした歴史理解が一般的となっている。天智天皇は弟の大海人皇子に譲位することを約束していたが、死の間際になって自分の息子の大友皇子かわいさのゆえに約束を反故にしたため、大海人皇子は失意のうちに大津宮を去り、大友皇子の戦争準備を知って戦う決意をした、というものである。
 しかし著者は、そもそも「日本書紀」が、壬申の乱で勝者となった天武天皇・持統天皇の「勝者の視点」で書かれた歴史書であることを問題視し、その記述の矛盾や、他の史料との食い違いなどを検証しながら、真の大乱の様相と、大友皇子、大海人皇子それぞれの思惑、そして勝者となった大海人皇子が、なぜ初の「天皇」となって大権を振るうことができるようになったかを読み解いていく。

 その考察は、天智天皇、大海人皇子、大友皇子それぞれの立場が本当はどうであったか、結果的に勝者となった大海人皇子の周辺にはどんな人々がいたか、といったところから始まり、内乱の発端、展開から追い詰められて自刃にいたる大友皇子の様子と、それに対峙していた大海人皇子側の動きを丁寧に追いながら展開されていく。
 その戦いはさながら、古代における「天下分け目の戦い」ともいえる。戦いの舞台が不破関(関ヶ原)周辺になったことなどもあり、よく知られる関ヶ原の戦いの動向になぞらえながら解説されることや、「日本書紀」の記述を小説風に書き下してところどころに配置するなど、わかりやすくする工夫もあり、とっつきにくい感のある古代史を身近に感じることができた。
 
 興味深かったのは、壬申の乱が大乱となった理由について、天智天皇の治世においてはじめて実施された人口調査をもとに作成された戸籍「庚午年籍」によって、日本史上はじめて民衆から大規模に徴兵することが可能になった、ということがあった。
 また、大海人皇子の軍隊がなぜ、のちに天皇家の始祖神となる天照大神の加護を受けていたという神話が生まれたか、ということを大海人皇子や周辺の人物との関わりから読み解くところも面白い。これらはすべて、初めて大海人皇子が名乗った「天皇」という地位の権威を特別なものにしていく装置になっていくと思うと、まさに「天皇誕生」の現場に立ち会っているような興奮があった。
 さらに面白かったのは、大海人皇子は決して戦線に出ることなく後方に止まり、大友皇子との戦いには、その息子の高市皇子に軍事大権を委ねたということである。これまでの「大王(おおきみ)」は全国の豪族のトップに立という立場だったが、いわば前線で豪族を束ねる役割を切り離し、そこから超越した支配者としての立場を明確にした、ということが「天皇」の誕生につながったという。

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 瀬田橋での戦いで敗れた大友皇子は追い詰められ、「ヤマサキ」というところで自刃したという。その場所がどこかはわかっていないが、大津市にある茶臼山古墳の墳丘の上に、大友皇子と最後まで従ってきた4人の舎人の「葬り塚」と伝わる塚が残されている。また、園城寺(三井寺)は大友皇子の息子が、父の霊を弔うために創建したと伝わる。王位は大海人のものとなり、都は飛鳥へ移された。身近なところにある史跡が語る歴史が、実は大きな節目であったことを改めて知ることができた読書となった。

ヘッダー写真は大津市の茶臼山古墳の墳丘上にある「葬り塚」
http://www5.city.otsu.shiga.jp/kankyou/content.asp?key=0412000000&skey=108


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