学生最後の春休み、やっぱり私は長期休みが苦手

高校三年生のとき、同じクラスにとても野球がうまい子がいた。そこまで野球には詳しくない。けれど、明らかに彼中心でゲームがすすみ、ここぞという時に期待され、彼が泣けば周りも胸がぎゅっとなるような、そういう素敵な人だった。
彼とは2年生から同じクラスだったこともあり、特別に距離があるわけでもないわけでも無かった。けれど三年生になってからは何故か彼を前にすると、いや、前にしなくても、春の鈍器のようなあたたかさのように、「自分の無力さ」がずしんと重かった。
私の吹奏楽部では三年生になる前に部卒する。その後有志で(とはいえ皆やりたいのでほとんどの三年生は参加していたが)春の大会から野球部の応援へ行っていた。そこで見た彼を同じ教室で見ると「私なんかが…」という気持ちがおさまらなかった。仲が良かった野球部のマネージャーの子に「○○くんはあんなに頑張ってる。私は無産市民なのにご飯食べてていいのか」とか言ってた。本人にも言ったことがある気がするけどどんな反応をされたのか覚えていない。きっと彼のことだから優しい言葉をくれたと思う。とにかく、彼のことを思うと何も生み出していない自分がお弁当を一丁前に食べているのがなんか許せなくなって、そのまま食べずに過ごしたくなった。(何も生み出していないうえに作ってもらったお弁当まで食べないのは罪が重すぎるので食べて帰った。)


長期休みになるといつもこのことを思い出す気がする。

あの頃の私は、部活も卒業しさあ受験勉強だという空気を前にして、「自分は何も生み出していない」と戦っていた。勉強はもちろんしていたが、それでは何かを生み出したことにはならなかった。「誰かのための何かを生み出していない」ことがキツかった。働かざるもの食うべからず。

私の大学生活の長期休みは暇との戦いだ。気を抜くとすぐに「働かざるもの」になる。バイトしてても時間がある。長期休みの度に「今日の私は何を生み出せた?」って考えて落ち込む。
大学の卒業も決まりサークルも卒業し、アルバイトも終えた今、やっぱり長期休みが苦手だと痛感する。もちろん遊びの予定もあるし、家で好きな映画やドラマを明日のことを気にせず見れるのも最高だ。だけど、例えば学校に行くとか、仕事に行くとか、そういう半強制的に時間が区切られていくことが無いと、いくら楽しいことをしていたって楽しさが少しだけ減るような気がする。

大学の友達や後輩に会うと「暇なとき何してるの?」ってよく聞くのだが、「暇なことを悪いとか思わないです」って話された時があった。間違いない。罪悪感を並べてそれと向き合う必要もない。

そう分かっていてもやっぱり、家でスマホを見たりドラマを見たりして時間になったらご飯を食べる。そういう日を過ごした日は決まって野球部の彼とその時抱いていた「私なんかが」を思い出してしまうのだ。


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