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初めて日本にやってきた凱旋門賞馬・トピオの物語(ミスターシービーの母父)

日本に輸入された凱旋門賞馬の中で、最も昔の勝ち馬は1959年優勝のセントクレスピン(Saint Crespin)です。

同馬は「きまぐれジョージ」ことエリモジョージ​と「貴公子」タイテエムという二頭の天皇賞馬の父として有名です。 ※タイテエムは英国からの持込

セントクレスピンといえば来日時深刻なインポテンツを患っており、それを獣医さんが木槌で叩いて治したというなんともビックリなエピソードがありますよね。

ではこのセントクレスピンが我が国に初めてやってきた凱旋門賞馬でしょうか。答えはNOです。

では一体誰なんでしょうか?

……正解はトピオ(Topyo)です。

競馬に詳しい読者の皆様でも誰?と思われたんじゃないでしょうか。トピ夫?なんか弱そう……正直私、最初そう思いました。

どの言語のWikipediaにも項目がありませんし、地元のフランス語で検索してもほとんど記事がありません。このトピオ、どんな馬だったんでしょうか。

史上最多の30頭の凱旋門賞の覇者・トピオ

トピオと聞いてパッとわかる人がいるとすれば、それは我が国史上三頭目の三冠馬・ミスターシービーの母の父としてでしょう。

天馬・トウショウボーイとデビュー戦を共にし、彼との間にただ一頭の産駒を残したシービークインの父ですね。

そのトピオは1964年4月18日にフランスで生まれました。

そのころ日本ではちょうどシンザンが三冠に向けて皐月賞を制し、世間は来る東京オリンピックへの期待に湧き上がっている頃です。

1967年の3歳時、トピオは大レースの出走こそありませんでしたが、ラ・フォルス賞とラ・コトノルマンド賞という2つの重賞レースの勝利を引っ提げて凱旋門賞に臨みました。

しかし、この年の凱旋門賞はある異常事態が生じていました。出走馬が史上最多の30頭もいたのです。

この年の一番手と目されるのは英国から来たあのリボー(Ribot)の子、リボッコ(Ribocco、まんまやんけ)。3歳のリボッコはこの年のアイリッシュダービーの勝ち馬でした。鞍上に英国の至宝レスター・ピゴットを迎えていることからも同馬への期待がうかがえます。二番手の評価はフランスの英雄的ジョッキー、イヴ・サンマルタンを迎え休み明けからぶっつけで臨む3歳馬ロワダゴベール(Roi Dagobert)。トピオとは同年の春に対戦があり、そのときトピオはロワダゴベールに全く歯が立ちませんでした。サンマルタンの地元人気に推されてオッズ的にはロワダゴベールが一番人気となりました。バーデン大賞の覇者で4歳のサルヴォ(Salvo)がこれに続いて三番人気になりました。

一方のトピオはといえば83倍のオッズで30頭中23番人気。実績以上に前走ピゴットを背にしながら7着と敗れたことが響いての低評価でした。

この年の凱旋門賞はキングジョージでサルヴォを圧倒し前哨戦のフォア賞も快勝した最強古馬バステッド(Busted)が直前で故障引退。イギリス二冠の3歳馬ロイヤルパレス(Royal Palace)が英チャンピオンSにまわったことから戦前から混戦ムードが漂っていました。それにより色めき立った各陣営からのエントリーが殺到した結果、史上最多の30頭というレースになったのは想像に難くありません。また、トピオも明らかにその一頭でした。

しかし、そんなトピオですが大変心強い相棒を背にすることになります。後に最強牝馬として栄華を極めるダリア(Dahlia)の主戦騎手として有名になるオーストラリア出身騎手ビル・パイアーズを鞍上に迎えることができたのです。

ミラクル・トピオ

パイアーズ騎手は明確なインスピレーションを以てこのレースに臨んでいました。先行馬郡の後ろ、全体の中団につけ人気馬たちの前で競馬をする。そして直線で彼らを迎え撃つ。パイアーズ騎手のそんな皮算用とともにトピオはゲートに収まりました。するとレースはまさにイメージ通りの展開で直線に入ります。一方の人気馬たちはマトモにレースができたのはロワダゴベールくらいで後方からインを突っ込んできたサルヴォは先行馬に前をカットされ脚勢を失い、リボッコのほうも可哀そうなくらい進む先々で進路を塞がれました。粘る逃げ馬がバテると、トピオはついには押し出されるように先頭に立ちました。残り200メートルを過ぎたところでした。

しかし、流石は実力馬、態勢を立て直してなおラチ沿いを突くサルヴォ、何とか間隙を見つけたリボッコがトピオに襲い掛かります。ロワダゴベールは休み明けが響いてか、伸びが苦しくなっていました。

※リンクに動画あり。トピオ(26)サルヴォ(12)リボッコ(18)

最内からサルヴォ、その外からリボット、粘るトピオが交わされる……と思われたそのとき、ゴール板はやってきました。

無名のトピオがサルヴォをクビ差退けて凱旋門賞の覇者となった瞬間です。

トピオの単勝83倍は史上最高の大穴でした。トピオの馬主であるヴァルテラ夫人は実は夫のレオン・ヴァルテラとともに知られた大馬主で、フランスの主要レースのほとんどを勝っており、唯一残したタイトルがこの凱旋門賞でした。トピオの優勝により主要レース全制覇を達成することになりました。ヴェルテラ夫人はレース後パイアーズ騎手について「ピゴットよりもトピオのことを理解していた」という皮肉を残していることからもその上機嫌ぶりが伝わってくるというものです。一方のパイアーズ騎手はフランスの全国中継のなかで「人生最高の時」と語り、喜びを表現しました。

「人生最高の時」の4日後……パイアーズ騎手の悲劇

この記事にとっては余談ですが、「人生最高の時」を噛みしめるパイアーズ騎手の身にとんでもない事態が起こっていたのです。

凱旋門賞のおよそ1年半前の1966年7月16日、まだフランスに来てまもないパイアーズ騎手は、とある女性と車同士の交通事故を起こした。まだフランス語がよくわからなかったパイアーズは謝罪をして、彼女を家まで送っていった。パイアーズは、彼女に怪我がないか訊ね、無事だと聞いて安心して引き上げた。しかしこのとき、パイアーズ自身はそうとは知らずに、パイアーズに一方的に非があると言質を取られてしまった。訴状が届いても読めないパイアーズは放っておいた。パイアーズは出廷しないまま公判が開かれ、1967年7月4日に1年の実刑判決が出ていた。パイアーズはそんなことは露知らず、凱旋門賞に出て優勝したのである。たまたまテレビをみていたその女性は、パイアーズが世界最大のレースに勝ってべらぼうな賞金を受け取ったことを知り、パイアーズを訴えることにした。

引用元:https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%93%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%91%E3%82%A4%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%BA

……という事情でパイアース騎手は栄光からわずか4日後の木曜日、投獄の憂き目にあうことになりました。幸い、フランス語がわからなかったことが情状酌量として考慮されて33日後に出所することができました。出所後パイアーズ騎手は「獄中で一番優しかったのはロシアのスパイだったやつだよ」と記者を笑わせました。どちらかというとこのエピソードがこの年の凱旋門賞にまつわる出来事として当時はよく知られていたようです……優勝したトピオの名前よりも

トピオ、日本に来る

大方のファンはこの凱旋門賞の勝利を展開に恵まれたトピオのムラ駆けと見ましたが、どうもその通りだったようで、その後トピオは4歳になった1968年も現役を続けたようですがパッとせず、17戦4勝の成績で引退しました。

そして、1969年に種牡馬として日本に輸入されその年から供用が始まりました。前述のセントクレスピンの輸入が馬齢にして15歳の1971年ですから、引退直後でピチピチの凱旋門賞馬であるトピオがこのタイミングで輸入されたのは驚きの早さと言えます。何につけてもプライドの高いフランス人が自国の誇りである地元の凱旋門賞馬を手放すなんて当時としては異例の出来事だったでしょう。導入の経緯は調査不足で定かではありませんが、考えられるのは

①なんといっても凱旋門賞というビッグレースの勝ち馬であること

②日本にとって馴染みの深いゲインズボロー(Gainsborough)の直系

※戦前にはトウルヌソル(Tournesol)、同時期にチャイナロック(China Rock)などの成功例がありました。セントクレスピンも同じくゲインズボロー系です。また、トピオはファイントップ(Fine Top)の直子であり、この系統からは後にディクタス(Dictus)が輸入されサッカーボーイをはじめとする活躍馬を出しています。

さらに、

③現地であんまり期待されてなかった(悲)

これに尽きる思います。トピオの凱旋門賞はあまりにもフロックの要素が多すぎました。史上最多頭数、史上最低人気の優勝というレッテルは種牡馬・トピオにとって決して好ましいことではなかったでしょう。それでも地元の凱旋門賞馬を日本人の手に譲るのは抵抗があったでしょうが、フランスで種牡馬としてやっていくにはあんまりにもあんまりな「箔」がついてしまっていました。かくして、トピオは日本にやってきた最初の凱旋門賞馬として歓迎されることとなりました

日本での種牡馬生活~早すぎる死

日本に初めて凱旋門賞馬がやってきた!ということでトピオは初年度から大変な人気を集めた……わけではなく、そこそこの数の牝馬を集めたようですが目立った活躍馬は出ず、トピオは1975年供用からわずかに6年で帰らぬ馬となりました。馬齢にして11歳、まだまだこれからという時でした。皮肉にも残った子供たちの中から代表産駒である第一回エリザベス女王杯の覇者ディアマンテと、快速娘として名を馳せ三冠馬の母となるシービークインが出ました。産駒の母数の少なさから考えると(勝ち上がり率こそイマイチではありますが)この2頭の孝行娘が出たことを考えるともっと長く生きれたら少し違った語られ方をしているかもしれません。

まとめ:ありがとう、トピオ

トピオの一生において、何よりの功績はやはりシービークインを輩出し、三冠馬・ミスターシービーの血統の礎となったことでしょう。これは筆者の妄想かもしれませんが、ミスターシービーって結構トピオの血の影響力を受けている気がするんですよね。どちらかと言えば道悪を苦手にするトウショウボーイ産駒の中でシービーは皐月賞の不良馬場を耐え抜きました。お父さんのトウショウボーイとは対称的に種牡馬として大成できなかったのもトピオの血の重さが出てしまったんじゃないかと。

長くなりましたがこうして、ある意味で凱旋門賞史上最も地味な勝者・トピオは日本の競馬史を大きく変えました。

もしもあの凱旋門賞で奇跡的な優勝を果たしていなければ、トピオが日本に来ることもなかった。

もしもトピオが日本に来ていなければトウショウボーイとシービークインの運命的な出会いもなかった。

もしもトピオが日本に来ていなければシンザン以来19年ぶりの三冠馬が生まれていなかった、もしも……

そう想いを巡らせると出てくる言葉は一つです。日本に来てくれてありがとう、トピオ

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