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日本とフィリピン

今、フィリピン大統領が来日されて重要な打ち合わせをしています。
フィリピンは石油の輸入経路を確保するための絶対必要なパートナーです。

日本はフィリピン沿岸警備隊に巡視艇を供与する予定です。

昔、フィリピンに行って、あちらの経営者や、弁護士などと打ち合わせをしていると突然、「戦時中、日本は酷いことをした」と言われることがありました。

私は、学校で習った歴史では、「日本はフィリピン解放に力を貸した」としか習っていないので反論できずにいたのですが、今回読んだこの2冊によって、ほぼ理解することができました。

そもそも、日本とフィリピンの付き合いは古くからあり、秀吉が太政大臣になった頃から歴史にはっきりと記されるようになった。

スペインが、キリスト教をもってフィリピンを奴隷化して、次に中国を攻めようとした時に、この海域を縦横に飛び回っていた日本人を雇うことを計画していました。

しかし、秀吉は日本人を奴隷として売買するキリスト教徒を嫌い、キリスト教禁止令を出しました。

秀吉は中国を攻めアジア圏を統合する意思を固め、フィリピンに降伏勧告状を送りました。

時代が降り、333年間のスペイン植民地、48年間のアメリカ植民地、1942年日本軍マニラ占領、同年東條首相が国会演説で大東亜共栄圏確立への協力を条件にフィリピンに独立を与える方針を表明。1943年フィリピン共和国が発足。ホセ・ラウレル大統領就任。

日本が酷いことをした記録はないのだが、弁護士は「バターン死の行進」があったという。

アメリカ人が語る

バターン死の行進(バターンしのこうしん、タガログ語: Martsa ng Kamatayan sa Bataan、英語: Bataan Death March)とは、第二次大戦中の日本軍によるフィリピン進攻作戦において、バターン半島日本軍に投降したアメリカ軍・アメリカ領フィリピン軍捕虜が、捕虜収容所に移動する際に多数死亡した行進のことを言う。全長は120kmで、もともとはその半分弱は鉄道とトラックで運ばれる予定であったが、計画を立てた当初の捕虜の予想数と、実際の捕虜の数に大きく違いがあり、結局約83kmの距離を3日間、1日平均14kmを難民と捕虜と監視の日本兵が歩いた。
フィリピンでは、日本がアメリカ軍を破ってバターン半島を陥落させた4月9日を2009年から勇者の日 (タガログ語: Araw ng Kagitingan) としてフィリピン・アメリカの戦士を称える休日として定めている。

ウィキペディア

アメリカの植民地からフィリピン人を解放した日本軍は、移動手段の車を保有していなかったので、目的地まで一緒に歩いた。
これをアメリカ軍が自己弁護のために「日本人がフィリピン人を無理に歩かせて殺した」と言い張っているのです。

アメリカ軍は何を正当化しようとしたのでしょうか。
アメリカ人、マックス・フォン・シュラーは著書で書きました。

実際に、アメリカのフィリピン征服は非常に残虐でした。1899年から1913年までの戦争で、およそ100万人のフィリピン人が殺害されました。米軍はフィリピン人をよく水責めの拷問にかけていましたし、バランギガ村虐殺のようなことはよく起きていました。アメリカ兵が最初にこの村に入った時は村民とアメリカ兵の関係は良かったのですが、次第にアメリカ兵が村民の食糧を盗んだり、村の女性に性的暴行を加えたりという事件が増えてきたので、村民がアメリカ兵を何人か殺しました。この村のフィリピン人の抵抗に怒ったアメリカの司令官が、その村とその周辺を徹底的に攻撃する命令を出しました。さらに、戦闘の後、罰として村の十歳以上の男子を全員死刑にしたのです。

アメリカ人が隠しておきたい日本の歴史

このような事実が出てきます。これを隠したいのですね。

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