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解決は、問題に対する答えが与えられることでなく、問題自体の消失という仕方で起こる。

「話す」ことは「離す」こと

日々、いろんな相談を受ける。他愛のない話から、生きか死ぬかといった深刻な話まで。

人はなぜ、困った時に話を聴いてもらいたいのか。

単に吐き出したい人もいる。(発散型)
誰かの答えが欲しい人もいる。(教えて型)
共感してもらいたい人もいる。(わかって型)
自己を整理し、自己を理解したい人もいる。(胸貸りる型)

それは時々に違うかもしれないが、自分の中にあるものを「話す」ということは、それを客観視する一つの方法(文字にしたり、絵を描いたり、踊ったり歌ったりと色んな表現があるが)であり、それによって自分と考え(思い)に距離ができる。

同一化したものとの分離。

「自分」と「悩み」を離してみる。それをちゃんと見て、感じて、理解する。

自分と悩みの脱同一化

そう、「話す」ことは「離す」こと、そして自然に「放す」こと。


「変わる人」と「変わらない人」

ただ愚痴のように、事柄や他者や社会に対する不満をグタグタと語るのも〈時には〉いいかもしれない。でも、それだけでは何も変わらい。いや、むしろ徒にネガティブな言葉を吐き、それをまた自分が聞くことで、さらにその認識が強化されてしまいかねない。

変化が生じる人は、ほぼ共通して、自分の〈感覚〉に意識を向けている。自分に意識を向けると、言葉数は少なくなる。感覚に意識を向けると、頭では考えられないからだ。

頭で考えていることは自分ではない。自分という〈イメージ〉なのだ。

いま・ここの自分を知るには、感じるしかない。感情や感覚は、身体に属する。身体は今・ここにしか存在しえない。感じるということは今・ここでしかできない。


「思考」「感情」「感覚」「存在」

「Don’t think. FEEL!(考えるな・感じろ)」というのはブルース・リーの名言であるが、これがなかなか難しい。

どうしても考えてしまう。それはそれでいい。仕方ない。ただ、その時は〈いま・ここ〉にいない。つまりそれは〈リアル〉ではない。

感じてみよう。

それを考えている時、どんな気持ちになるだろうか。その時、どんな感覚が身体に生じているだろうか。

ドーンとした感覚。胃がしくしくする感じ。肩が重くだるい感じ。胸のあたりがモヤモヤとする感じ。

それを感じている時、どんなイメージが浮かぶだろうか。

霧のなかにいる感覚。草原にポツリと咲く花。断崖絶壁を見上げている感覚。

いま・ここで感じていること、感覚していることを、ゆっくりと言語化してみる。そして、言ってみて、またそれを感じてみる。

そんな風に、「思考」「感情」「感覚」「存在」のレベルを行き来してみる。

これは、何もセラピーに限らず、宗教でも、武道でも、スポーツでも、芸術でも、ビジネスでも、みな辿っている行為だと思う。ただ、これがどこかのレベルに固定されてしまったり、混乱してしまうことで、自分(思考)とそれ以外(感情・感覚・存在)が切り離されているような苦痛を覚える。

慣れていなければ自分一人でこういう作業をするのは難しいかもしれない。そんな時に共にいてサポートしてくれる人がいると随分違う。

実際のカウンセリングセッションでも実感することだが、変化する人の特徴は、自分の感覚を意識できる人だ。これはすでに先人が発見している。下記参照。

フォーカシング(Focusing) は、静かに、心に感じられた「実感」に触れ、そこから意味を見いだす方法。フォーカシングの提唱者であるユージン・ジェンドリンは、カウンセリングに革命を起こしたとされるカール・ロジャーズと共に実践・研究をしていた。ロジャーズやジェンドリンのグループはセラピーが効果的なものとなるための条件について研究し、セラピー・カウンセリングでは「話された〈内容〉よりもそれを話す人がどのような〈体験の仕方〉をしているか」ということの方が大事だ、ということを発見した。たくさんのケースを検討した結果、確認されたのは、クライアント(相談者)は事柄(内容)についてただ話をするのではなく、まだ言葉にはなっていないけれど確かに感じているという〈気持ち〉や〈感覚〉に触れながら、それを新たに言葉にしようとしていたのだ。

「言える」と「癒える」

自分がいま・ここで感じていることを、言葉にして言えると、癒える。

それが不一致していると、やはり気持ち悪いのだ。

だた、日常生活では諸々の大人のお約束で、表と裏、本音と建前、自分が感じていることと言動が一致しない。

それに気づけているうちはいいが、いつしかそれすらわからなくなってしまう。

時に、自分のために時間を作って。身体の声を、存在の声を、いのちの声を、ありのままに、聴いてあげたい。それがどれだけネガティブなものであっても。

許すも許さないもない。存在するものは既に許されている。ジャッジするのはいつも「思考」だ。その思考も、もちろん許されている。

解決は問題に対する答えが与えられることでなく、問題自体の消失という仕方で起こる。



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