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『オッペンハイマー』感想(ネタバレ有)(05/Apr/2024)

 こういうのには順番がある。頑張れよ……という台詞を思い出してしまいました。これは進撃の巨人ですね

 こんにちは、じゅんいです。
 昨日、『オッペンハイマー』を見に行きました。
 ノーラン作品は『ダンケルク』以来でしたがどうにかついて行くことは出来ました。『ダンケルク』でもそうですがノーラン監督特有の時系列をバラバラに崩す作り方に着いて行くのはそこまで大変ではありませんでした。オッペンハイマーが開発とアカ狩りに巻き込まれるまでとストローズの公聴会関連のシーンはカラーとモノクロで明確に区別されていましたのでね。

 この映画の大きなテーマであり回収されない視聴者への問いかけと言えば「核開発の負の側面、その責任は誰にあるのか?」という一点になると思います。
 オッペンハイマーが核兵器の開発について強く意識したきっかけはナチスドイツが核開発を進めているという報道であり、その使用でによる戦争の終結と新秩序の構築に納得したのはポツダムにいた首脳陣であり、投下地に日本が選ばれたのは帝国軍がいつまで経っても幸福を受け入れられずに勝ち目の薄い戦争を続けたためであり、最終的に広島への投下を決めたのは日本への本土空襲を指揮していた司令官であり、実際に投下のためのボタンを押したのは爆撃機のパイロットです。
 さらに、仮に史実のような歴史を歩まなかったとしても、世界大戦の混乱の中でどこの国が核兵器の開発に成功してもおかしくは無かったはずです。オッペンハイマーが米国の英雄となることでその貧乏くじを引いただけ、という見方も出来るのかもしれません。
 私は歴史について人並みには明るい自信がありますがそれでもこの考えについて結論が出せません。それぞれ、どのような手段であってもこの歴史に触れた人がそれぞれの結論を胸に秘めておけばいいと思います。

 ただ、私が特に気になったのはロスアラモス研究都市に関連する二つの描写です。
 一つ目は、起爆実験の少し前、ロスアラモス市街地をオッペンハイマーとグローヴスが会話しているシーンです。その時の話題は研究都市内での人口増加について、グローヴスが人口の急激な増加(=ベビーブーム)について憂い、オッペンハイマーが「避妊は私の仕事ではない」と返すシーンです。
 このシーンは最も戦争から遠く、最も戦果に近いシーンだったと自分は考えています。
 ロスアラモスはマンハッタン計画の研究成果が集積する都市として作られました。そこに移住する人は厳しく制限され、更にそこで行われている研究はともすれば世界を滅ぼしかねない核爆弾の開発です。戦争の切り札を身近にひしひしと感じながら、同時に閉鎖都市という特殊環境ゆえに子作りが止まらない。人を殺すための兵器を作りながらそのすぐ真横である種の平和ボケが発生している。
 一瞬のシーンでしたがこの不均衡に上映中ずっと違和感を拭えないまま見ていました。

 二つ目はオッペンハイマーがロスアラモスを畳むことを決めたシーン。彼はロスアラモスについて「原住民に返します」と発言しました。これも自分には引っかかった発言です。
 前提としてロスアラモスでは原子爆弾の起爆実験が行われました。その後、様々な検証によってその地が放射能によって汚染されたことは明らかなはずです。仮に放射能の脅威が十分に理解されていない時代であったとしても、科学者であれば放射能のリスクとそのリスクから人々を避ける行為の必要性は理解しているはずです。ましてや原住民はアメリカ内ではマイノリティです。
 このオッペンハイマーの動きは、自分には日本や世界に対する大きな罪の意識に苛まれた結果、自分の周囲を顧みることが出来なくなった結果の動きであると解釈されました。実際に彼の元妻で不倫相手のタトロックは死んでいますし。
 

 ここまでのシーンを見て私は「ノーラン監督的にはオッペンハイマーは自分の罪や認識のずれを全て把握は出来ていない」ということがあるのではないのかと考えました。
 ラストシーンでオッペンハイマーとアインシュタインの会話の内容が明かされます。自分の発明が、かつて計算で誤っているとされた空気中の核分裂反応の連鎖のように世界に憎悪を拡散しているという認識に苦しむ彼は、それだけ苦しんでもなお問題の全体像が見えていない。核という制御しきれない力に対して、我々は未だに無力で無知であるとノーラン監督は言いたいのかもしれない。そんなことを考えた映画体験でした。


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