「社会不適合」に対する一考(Jul/XX/2024)

 「社会不適合者」という語を改めて見ると、なんて残酷な言葉だと思うと同時に便利な言葉だな、という風にも感じる。
 定義が不明瞭。社会なんざその構成員の最大公約数を標準として作られるのでほぼすべての構成員が大なり小なり適合していないということは明確である。

 ただ、今回はあえて少しこの「社会不適合」について考えたい。
 なぜそんなことをするのかは単純で、自分が社会不適合者である自覚がいくばくかあるからである。自分の感覚を整理するため、というのが大きい。

 社会不適合と呼ばれる場合には2種類あるのだと思う。
 まず、「現代の経済システムに対しての不適合」。
 現代日本では、大体の場合自分の意思のもとに職業を決定し、それに1日あたり移動などを含めて約12時間弱従事する。そして給料をもらい、自分の意思のもとに決定した固定費を支払い、残りを余暇で消費したり将来のことを考えて貯蓄・運用する。
 このような労働のシステムがほとんどの社会の構成員に対して要求されている。これが行えない、というパターンだ。
 例えば、自分で選択していない職業に従事せざるを得ず、持ちえb-しょんなどの観点から生産性が確保できない、12時間弱を仕事に対して使うことが出来ない、自分で稼いだ金を自分の力で満足に分配・運用できない場合などが考えられる。この場合、心身を危険にさらしながら働いたり生活のための資金や時間のリソースをうまく運用することが出来ずに生活が難しい状況になる。

 2つ目が「群れに対しての不適合」。
 人間は今の形に進化する前から集団生活を行う生物であった。集団に属してその場の人間どうしの秩序に従うことで自分の生存のための負担を減らし、群れの他の構成員の負担を一部肩代わりする。そして集団の中で子孫を残す。
 これを苦手とする人は社会の中で孤立という不適合を起こす。前者の場合はシステムに適合できずに多くの問題を抱えるが周囲に人はいる。後者の場合は周囲に人はいないが経済システムに適合しているのである程度の経済的な余裕がある。

 もちろんこの両方に対して不適合を起こす人もいるだろう。しかし、ある程度分類を確認するとこの二つに収束するのではないか、と言うのが今回の結論である。
 自分は後者だと思う。


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