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ゲハとゲームコミュニティの「貧困」

「「ゲハ」批判 2020年代のゲームビジネスを正面から考える」という記事を書いた。

まったくの自画自賛だが、よい記事が書けたと思う。記事がよいというか、誰かがいったん言語化して集積しておかなければいけないだろう文化資本の充足という点で、お忙しい業界関係者の方々に代わって労働したというのがよい(一応、公開前に何名か関係者の方の目を通して頂いている)。彼らに言わせれば、衆生の無知を指摘するは易いが、だったら何が正しいんだと訊かれるのは必定で、それにこたえるのも面倒だから最初から黙っておけばよいというのが概ねの意見ではなかろうか(私の記事が正しいか間違ってるか別にしろ)。

とりあえず現状把握に努めること、何より私が今後のビジネス関係の批評を書く上で孫引きすることを期待することから、ゲームビジネスの「チュートリアル」として(最後の段を除き)、極力私情を排して書いた本稿だが、無論のこと、私自身ゲームコミュニティを呪い続ける「ゲハ」的なものに、思わないことがないではない。というより、メディア関係者は彼らの不条理な脅迫や暴力に晒される当事者であり、平林久和氏が涙ながらに訴えたのもわけないのである(さすがにそこまでセンチになれんが)。

ところで、この「ゲハ」的なものは一体何だろう。記事では生産性が低いということでバッサリ割愛してしまったのだが、今回は週報の一環でちょっくら考えてみるとしよう。


ゲハが許容された時代

まず「ゲハ」という概念は匿名掲示板の「ゲームハード板」に由来するのは間違っていないが、実際にはゲームハードを対立させて競走馬のように行方を見守るというのは雑誌時代から結構あった、らしい。私は時代的に当事者ではないが、それこそ「セガなんてだっせーよな」というCMを日本でうったり、米国ではことさら任天堂を挑発するようなCMを作っては、任天堂はもっぱら会長が他陣営をクソミソに言って回るという具合で、実際バチバチだったのだ。

私の考えでは、この時代における「ゲハ」的なものは、結構ただしい。これは記事にも書いた通りだが、根本的に2000年代までのコンソールゲーム最大のメリットとは、「子どもが買える(ほど手ごろな)高性能コンピュータ」という点にあった。西海岸でウォズニアックがマッキントッシュを売り出した1年前に、京都の中堅企業が「ファミリーコンピュータ」を売り出して子どもたちにブラウン管に炸裂する光を与えたというのは、実際とんでもないことだった。そもそもファミコンはファミリーベーシックとつなげばほぼマイコン化でき、かの桜井政博はこれでプログラミングを会得している。

任天堂に限らず、セガにしろソニーにしろ、各々の技術と人員をフル稼働して、子どもという最も貧しい人々にも届けられるコンピュータを開発してきた。そしてそれは、とてつもないスピードで進化していった。それはまさに「技術立国ニッポン」の製造業的な魂の結実であり、何より、自動車やパソコンと違って子どもたちがその「技術の進化」の当事者になれたというのが、一層ロマンチックにしていた。1969年に初めてCB750という大型バイクが市販されたとき、全国の悪童たちが「ナナハン」に憧れた体験に近しい。

だからハード間の競争に乗じてファンボーイたちも論争に加担するという「ゲハ」的な構図は、少なくともWii、PS3、Xbox360が出そろう2000年代まではコミュニケーションの形式として「アリ」だった。70年代のバイク青年が「ホンダが、いいやカワサキが」と言い合ったように、90年代のロック青年が「ギブソンが、いいやフェンダーが」と言い合ったように。まぁバブル崩壊後の子どもたちでも加担できる「ニッポン」の技術的進歩が、この時代ではゲームぐらいしか残ってなかった、ともいえるが。

ところが残念なことに、今そのような楽しみ方はもうできない。やりたくても、できないのだ。詳しい話は全て記事に書いた通りだが、かくかくしかじかの事情により本来あったゲハ的なロマンは今のコンソールゲームには、少なくとも私個人の目線では一切ない。任天堂もソニーもMSも、単なるプラットフォーマー以上でも以下でもなく、そこに加担する情熱も全くない。


ゲハと「貧困」

ここで疑問なのが一体「ゲハ」が何故未だに残存しているのかということだ。私はこれが「ゲハ」というよりもゲームコミュニティにおける深刻な「貧困さ」を反映しているのではないかと薄々勘づいている。

大前提として、我々は特段一つのハードにこだわる必要はない。触れたい「コンテンツ」に応じて「箱」を買えばいい。しかもその「箱」は3~5万円程度で調達できて、全て揃えても15万円にも満たない。これは高校生でも買う原付バイクより安く、何なら私を含めPCゲーマーが所有するデスクトップPC1台にも満たない。もちろん、たった15万円も出せないから貧困なのだと言いたいわけではない。経済事情は人それぞれだろうし、物価高の現代では十分高額な買い物だろう。興味がないものなら1円だって惜しい。

ところが、あえて他のハードをけなす姿勢だけが理解できない。興味がないなら他社製品の評判や売上を知る必要はないし、興味があるなら自分で買えばいい。よしんば本当に貧困でゲーム機が買えなかったとして、それが悪辣な態度を取る理由にはならない。ゲームソフトも、批評が陳腐という次元を通り越して、MetacriticやSteamのユーザースコアで人気取りゲームに興じ、これみよがしにレビューで党派性を露わにするゲームメディア(スコア自体が悪いわけでない)もユーザーの陳腐な論争に加担している。ここには明らかに経済的な貧しさ以上の、「人格的な」貧しさがある。

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