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口伝鈔 第19章 「如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事」 ポルトガル語、日本語原文 朗読動画あり。

おはようございます。 今日も一緒にお参りをいたしましょう!
Bom dia a todos! Vamos juntos rito matinal.


『大無量寿経』(巻上)
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%8F%E8%AA%AC_%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C_(%E5%B7%BB%E4%B8%8A)
『大無量寿経』(巻下)
http://labo.wikidharma.org/index.php/仏説_無量寿経_(巻下)


O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (1)
https://www.dropbox.com/s/4jizvk1admnv3rm/sutra%20Buddha%20vida%20infinita%20-%20parte%20um.doc?dl=0
O Sutra Maior Sobre o Buda da Luz Infinita (2)
https://www.dropbox.com/s/o1uj62burt5yizf/sutra_Buddha_vida_infinita_-_parte_dois.doc?dl=0

BU" SE' MU RYÔ JU KYÔ (Pronúncia japonesa)
https://www.dropbox.com/s/jb3zfnv4qhzoya0/BU%22%20SE%27%20MU%20RY%C3%94%20JU%20KY%C3%94%20KAN%20J%C3%94.pages?dl=0

Capitulo 19
Sobre o Voto Original doTathagata dirigido aos entes profanos e não aos sábios
O Mestre do Honganji (Shinran) disse ao Mestre Nyoshin as palavras de seu falecido professor de Kurodani (Hōnen):
"As pessoas normalmente pensam: 'Se uma pessoa má atinge o Ir-nascer, quanto mais uma pessoa boa."
"Esta visão de longe parece afastar-se do Voto Original de Amida e de perto parece contradizer palavras douradas da aparição de Shakyamuni no mundo. Por esta razão, por cinco kalpas trabalhando em contemplação e miríades de práticas, Amida suportou os seis caminhos necessários para libertar o ente profano. Nenhum era para os sábios. Assim, o ente profano abraça o Voto Original e Irá-nascer na Terra da Recompensa."
"Se o Ir-nascer do ente profano fosse incidental, o Buda faria os votos para o nada e os esforços para realizá-los desapareceriam simplesmente. Entretanto, alinhando-se com o poder de Voto ele obteve grandes e amplos benefícios para os seres vivos de todas as direções. "Consequentemente, dez kalpas passaram desde que todos os Budas saudaram a realização de sua verdadeira iluminação. Como pode o testemunho de todos os Budas, numerosos como areias do Ganges, ser vazio e falso”.
"Até mesmo os Comentários de Shan-tao determinam, 'todo ente profano bom e mal alcança o ir-nascer. Isto também considera o ente profano malvado como principal e o bom ente profano como incidental. Logo todos os seres humanos profanos, bons e maus alcançam o ir-nascer".
"Portanto, se o bom ente profano, sendo incidental, pode atingir o Ir-nascer como pode o ímpio profano, sendo o principal, não atingir o Ir-nascer? "Assim, eu (Shinran) digo, 'Os próprios bons conseguem ir-nascer na Terra Pura, com muito maior razão, pois os maus o conseguirão"

原文

悪人正機の教説
(19)
一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。
 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈(玄義分)にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。

東本願寺聖典 ふりがな付き
https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=672


現代文
19章
 阿弥陀仏の本願はもともと愚かなひとのためであって、聖人のためにあるのではないこと。
本願寺の聖人が黒谷の先徳、[法然上人〕より伝えられたお教えであるといって、如信上人が仰せられるには、
 世間のひとはつねに、悪人でさえ浄土に生れることができるのだから、まして善人が生れるのはいうまでもない、と思っていることである。しかしこのことは遠くさかのぼっていえば、阿弥陀仏の本願にそむき、近くひきよせていえば、釈尊が世のひとのために説かれた金言に違っている。そのわけは、阿弥陀仏が五劫にわたって熟思を重ねられた労苦や、六度をはじめとするさまざまな修行をなさった忍耐は、実は愚かなひとがさとりにいたるための適当な方法を見いだすためであって、けっして聖人のためではない。したがって、愚かなひとこそは、阿弥陀仏の本願に乗って真実の浄土に生れることになっている目当てのひとである。愚かなひとがもし浄土に生れにくいならば、本願は虚しいこしらえごとでなければならないし、努力も徒労でなければならない。ところが、阿弥陀仏の本願とそのための努力とが固く結ばれて、一切のひとのために大きな恵みを与えることになり、これによってさとりを開いて、すでに今日まで十劫になるのである。これを証明する数かぎりない多くの仏たちの証言がどうしてうそいつわりの説でないことがあろうか。だからご注釈にも「愚かなひとはすべて善悪の区別なく浄土に生れるひとである」と仰せられている。しかしこれとて悪を犯す愚かなひとを本とし、善を修める愚かなひとは傍らに兼ねたのである。こうしたわけであるから阿弥陀仏の救いの対象としては、傍らに置かれた、善を修める愚かものでさえも浄土に生れるのであるならば、直接の目当てである、悪を犯す愚かものがどうして浄土に生れないであろうか。だからこそ、善人でさえ浄土に生れることができる、まして悪人はかならず生れることができる、と言わなければならない。と仰せられた。


一 阿弥陀仏の本願はこの章は 『嘆異抄』第三章と共通の問題をのべている。
二 六度 六波羅蜜のこと。波羅蜜pāramitāとは浄土、すなわち彼岸に到りえていること、またはその状態をいい、これより菩薩の修行としては、その境地に到ることを約束される修行をいう。これに1.施すこと、2.戒めをまもること、3.たえしのぶこと、4.精進すること、5.雑念をはらい、心を静めること、6.智慧をみがくことの六をかぞえる。大乗の菩薩のもっとも基本的な修行の在り方である。
三  目当てのひと原文には「正機」とある。「悪人正因」と熟語しないで、「悪人正機」という表現が用いられるのはあるいはここから導きだされて来たのかと思われる。
四 愚かなひとはすべて…… 『観経疏』玄義分の序題の文である(真宗聖教全書一。四四三)。
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歎異抄・執持抄・口伝抄・改邪鈔 (東洋文庫0033) Kindle版
親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)


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