見出し画像

死人に口なし

こんにちは。いきなり物騒なタイトルで失礼します。
ここんとこ色々とある中で、ふとこの言葉が浮かんだのでそのことについて書いていこうと思います。

・犠牲者の総意

今回あまり時間がない中で書いているので結論から言います。
犠牲者の無念は全員あるとは思いますが、それをいいように使っていることに違和感がありました。
「(責任の所在がはっきりしなきゃ)犠牲者は浮かばれねぇよ!」その人は市の職員にそう言った。でも俺はそうじゃない遺族を知っている。
一番付き合いがあった魚春さん親子。俺は親戚でもあります。
遺族である方と何度も連絡を取っていて、その際に「被害者の会への参加はどうする?」という話になりました。
「あの二人だったら、きっと人を恨むようなことはしないから」と参加を見送ると返事がありました。俺も、きっとそうだと思う。

それは決して魚春親子が言ったことじゃない。もしかしたら本人たちは違う思いかもしれない。でも話をすることは出来ないから、俺達は生前のその人たちの考え方や生き様を振り返って判断しなきゃならない。
魚春親子の遺族とのやりとりがあったから、安易に「犠牲者(全員)の無念」みたいな表現をされると違和感がある。そしてそれを都合よく使う人がいるのも小さな嫌悪感がある。

・被災者でも違う方向性

色々な会ができているけどそれぞれが違う主張をしている。
先日とある会の人に「うちの会に入って一緒に戦わないか」と誘われたけど、その人の話を聞いて違うな。と感じたから一緒になることはない。
説明会なのに「裁判がー」とか「開示請求がー」ってやるスタイルが俺は嫌いだし、役職ある職員もその場にいるだろうけどそこで答えられるわけ無いじゃん。と思う。

一部の被災者、遺族の方々に対して言いたいのは「説明会」の場で行政への責任追及や問い詰めるのやめませんか?ということです。
説明会で説明を聞きに来ているのに、そこで質問したいのに「責任追及」で紛糾して嫌な気分で帰る被災者もいる。
ネットの炎上も同じだけど、どうしてもああいった不満とかネガティブな声って大きく聞こえてしまう。で、感化されて小さな不満を持っている人もその不満を言い出す。

市も「被災者の声を聞く」と言って、あまり聞いてこなかった責任はある。行政は色々してくれているけど責任の所在とかはっきり示さない事も問題だと思う。
一方で上記の被災者達は説明を聞きたい被災者のことを考えたことがある?と聞きたい。
我が家は被災当時子ども達も小さくて、「責任追求」より「次の生活」が急務だった。次の生活拠点によって転校(市外、県外含めて)も検討しなければいけなかったし、俺自身も事業所の閉鎖に伴って転職活動を始めたばかりだった。生活を壊された怒りよりも「これから先どうするか・どうなるか」の方が重要。

追求をする人達も被災者のなら、未来を考える被災者もいる。
原因究明や追求をする被災者はそのことを考えてほしい。説明会でどう感じているのかということも。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?