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デカルト「エリザベト宛書簡」(21 mai 1643, ATIII 663-4)

直接会って問い尋ねることが適わずに、手紙を書くことしか出来なかったことを詫びるエリザベトに対し、デカルトは、直接面談せずに手紙を書いてくれたことが、賞賛すべき多数のことを面と向かって賞賛することの出来ない自分の欠陥を和らげてくれたと答える。直接会っていたとしたら、画家たちが天使に与える身体に非常によく似たエリザベトの身体から発せられる人間を超えた語りに、デカルトは魅了され(ravi)てしまっただろうから(おいおいおいよく言うよ)。そして、手紙に記されたエリザベトの思索の痕跡を何度も読み直し、それを思索する習いを身につけていくうちに、それらの思索の痕跡に目が眩む(ébloui)ことはなくなり、驚きと賞賛(admiration)のみがいや増すばかり、だと。
17世紀のフランス語のポリテスの水準に全く無知な私は、この数十行の修辞学的な異例性について判断する資格は全くないが、使用しているテクストの編者アルモガトは、18世紀の修辞学の参考書にhyperbole等の例として、このテクストが取り上げられていることを注に記している。
そして、私の記憶が正しければ、確か「第三省察」末尾のこれまた有名なテクストを特に主題化して、admirationとéblouissementとを同水準のものとして解釈する傾向のあるレヴィナスの議論に対する鋭い批判が村上勝三にある。
(因みに、既邦訳を見たが、誤訳とは言わないまでも、このような一番大事な言葉の網の目に無頓着である。)

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