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PANTA

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2023年7月7日に亡くなったPANTAに関する文章を纏めました。
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In Memoriam PANTAE(IV)

In Memoriam PANTAE(IV)

1982年にオレは大学に入学する。文三10組というところに入れられ、今になってみると様々な分野で活躍することになる同級生に恵まれた。一つ上の学年の先輩たちが新入生の面倒をみるというのが慣習で、そのオリエンテーション合宿(基本的に学生のみで運営させるのだから立派なものだ。今もそうなのだろうか。今から考えるとサークルや緩やかな意味での政治党派の草刈り場だったのだろう。こともあろうに、大学が始まってしば

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In Memoriam PANTAE(III)

In Memoriam PANTAE(III)

PANTA&HALのフル・ライブを聴くことが出来たのは、1980年12月14日の仙台市民会館の一度だけか。ライブ・ヴァージョンしか残されていない「TKO NIGHT LIGHT」のかっこよさといったらなかった。(もちろん、当時、一万円札は「オレを嘲笑う」ことも「役立たず」でもなかった。)今、二つのライブ・アルバムを聞くと、『1980X』の有するタイトさが失われていて、フリクションらに比べるとその大

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In memoriam PANTAE(I)

In memoriam PANTAE(I)

ここ数年は、昨日への準備のような時期だったと思う。ちょうど二年前にオレが大怪我して入院していたとき、今も少し障害の残る短期記憶のリハビリのためにパンタの歌詞を覚えたのは、今から考えれば確認と別れの儀式の始まりだったか。同じ病室に小学生の男の子が寂しそうに入院していて(誰も見舞いに来なかったな、コロナのせいだろうけど)、ごくたまに看護師さんと遊んでいる姿を見たことがあったので「ステファン」、あとは、

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In memoriam PANTAE(II)

In memoriam PANTAE(II)

高校に入ってからはどうだっただろう。高一(1978年)は、田中とバンドを作って、チャーやら四人囃子、森園勝敏らのフュージョンよりのロックをカヴァ-しつつ、ピストルズやクラッシュなども聴くという無茶苦茶な時期で、多分、PANTAはあまりきいていないと思う。その後、確か高二のときに、ひょんなきっかけで大学生の方々のやっているバンドに誘われ、ライブハウスに出るようになってから、出たばかりの『マラッカ』が

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PANTA

PANTA

オレは、PANTAのことを自分のアイドルと呼んで来た。これは、フランスの哲学者・哲学史家・神学者ジャン=リュック・マリオンの概念対に倣ったもので、アイドル=偶像は自らの欲望を投影する対象、対するイコン(=聖像画)は神の子キリストが描かれた聖像画のように、その対象に対して視線を無限に彷徨わせ、ある時彼方から神そのものの視線と出会うというもの。そう、AKBでもなんでもいいのだが、人はアイドルに対しては

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PANTAとのたった一枚のツー・ショット

PANTAとのたった一枚のツー・ショット

禁を破って。パンタさん、今まで本当にありがとう。たった一枚しかないけど、本当の宝物。2011年3月3日、『ユリシーズ』インタビュー(於初台ドアーズ)後。

何を今さら還暦を過ぎてということになるが、親も既にいなくなり、唯一のアイドルも消え去ったとなると、信仰のないオレの前にはもはや垂直的なものは何も存在しない。正念場だな。