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舞台「湯布院奇行」で感じたこと。

この物語で『僕』が語っていた言葉の数々。
『自分』自身に突き付けられることが多かった。

その中で
『大人に擬態する』
このセリフが一番印象深い。

『孵化』ではなく『擬態』

『孵化』は自分自身を変化させ子供から大人へ変わるれど、『擬態』は子供な自分を隠して大人になりすます。
なりすましても、いつかはその殻が剥がれ落ちて、結局は元の子供の自分に戻るかもしれない。
そんな脆さを持った『大人』に擬態した人が実はとても多いのではないか。
そもそも擬態すら出来てない自分は不完全な人間なんじゃないのか…。
舞台を見ながら頭の隅にずっとこの言葉が居座り続けていた。
『僕』の母親が「大人に擬態できたの?」と問いかける場面でも、まるで自分に問われているようでドキリとする。
『僕』も答えを明確に言っていなかったあたり、答えなんて出ないんだよなぁとぼんやりと考えていたりもした。
この物語はきっと誰もが持ってる内面の感情をそのまま舞台に具現化した様な一面もあると思う。
誰にでも当てはまる感情が一つはあって、持ち合わせてるもの。

日常の世界も曖昧で、色々な狭間で人は生きてる。
その狭間の物語は『僕』だけじゃなく、だれにでも起こりうるバグなんだろうなと舞台を見て感じた。

最後に『僕』が戻って来れたことは、彼なりに『孵化』出来たのか。
それとももしかしたらそれは『孵化』ではなくて『擬態』出来ただけで、その殻が剥がれ落ちたときにまた、『彼女』が忍び寄り、あちらの世界に誘い込んでいくかもしれない。
そんな予感がする最後だった。

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