雨の国、王妃の不倫 8

 先生のため息が止まない。気に入らないカードがどうしてもでるのだそうだ。
「こんなところに出てきちゃだめなのよ、あなたは。」
とタブレットに話しかけている。
「何がそんなに悪いんですか。」
 私は気になって尋ねた。先生は聞けば何でも教えてくれる。
「皇帝。」
「はい?」
 榮妃のことが頭をよぎる。
「皇帝のタブレットがどうしても今より先の位置に出てしまうの。それだと佳いインスピレーションが成立しないのよお。」
 と先生はこめかみを人差し指の先で叩きながら嘆いている。先生は八つ当たりするような人じゃない。八つ当たりの出来ないひとは、出来るひとよりしあわせだろうか?
 皇帝のタブレットがどうしても現在よりも先の時間軸の中に出てきてしまうのだそうだ。
「あなたは過去の時間軸の中に居てくれた方が私は好きなのよ。」
「未来の時間軸にあると皇帝のカードは意味が変わってくるんですか?」
「そうね、皇帝が現在より先の時間帯に来るとしたら意味は、慈悲と悲哀、かな。」
「へー。」
 細かい理屈は聞いても分からないので私はたずねない。
「それから良縁と、親愛かな。」
「ああ、それ、私の友達に出るといいんですけどね。」
「そうなの?」
 先生はこめかみを尚も叩きながらカードを見たまま言う。
「出会いを求めてるけどどうしても恵まれないんだって悲しんでましたから。」
「残念だけどこの道すじの中にその人は含まれていないは。この道は、取り合えず私を含んだ漠然とした運命についてだもの。そうだ、だからこそ皇帝には過去位置に出てきて欲しいのよ、」
「何でです?」
「あなたの為よ。」
 と先生は当たり前じゃない、と言葉に含みながら言った。
「皇帝のカードが過去位置に出たら、それは哀訴と支配と排斥。とにかく暴力。そして逆行。不変。そんな意味になるわ。あなたの道すじにはその方がいいと思うんだけれども。」
「あんまりな結果じゃないですか。」
 私は呆れた。なんてあんまりな未来診断。
「だって全部あなたの望んでいることよ。例えば。」
 先生は、空白、の位置に来ているカードを指差して言う。
「ここに居るのが今のあなた。私の身近な人の漠然とした道筋なんだけど、ここは特に貴方よ。」
 それは、制約、というよタブレットだった。
「空白の位置に制約が来ている。あなた欲求不満の塊ね。」
 何も言い返せない。
「悪いことが起こればいいと思っているでしょう。」
 先生は私の目をじっとみる。
「でも起こらないのよ、残念ね。」

“さむい。
と榮妃は呟いた。一人だった。火の用意のまだ来ない朝方に、榮妃は一人、房の戸口に立って見るともない庭を見ていた。梅雪殿の名に相応しく時にもない霜が腐れ落葉の上に降りていた。まだ霜の降る季節でもないのに、まさしく梅に雪だわ、と榮妃は考えていた。考えながら葉も華も何処かへ忘れてきた梅の老樹を眺める。
この茶錆びた葉がすなわち梅であった、
この枯れ鼠の霜がすなわち雪であった、
この朝に榮妃の心を彩ったものであった。
ふいに得た息子はふいに持ち去られていった。あの赤子は無かったことと思え。とだけ実父から告げることばが届けられていた。皇党と太后党との亀裂がいよいよ思わしくないのだそうだ。
普代家の左翼で身辺を固めつつある皇帝に対し太后が廃位の謀略に打って出るとの流言はとうからうわさでも何でもなかったし、(その準備は着々と進んでいた)皇党の普代達にとっては今廃位の悶着を起こされるよりは、皇后に養子を与えて釘を打とうとしたのである。
世継ぎの母としての地位を固めさせることで、どうにか危うい均衡をとろうとしたのである
正皇后に子がある状態で、太后も皇帝を廃する利点を著しく失った。榮妃の生んだこどもは太后の進路を反らすための布石にされたのであった。
皇后と太后から普代を捲き込んだ政争を沈着させるための代のされたのだった。

榮妃は、一人残された。
さむい。
ともう一度呟いた。この梅が花を着けていたことなどあっただろうか、と榮妃は先程から疑っている。花も無いままに葉だけ繁らせて、時がくれば腐っておちるのだ。それだけの樹なのだ。
そう、思って、さむい、もう一度呟いた。”

“そうね、最初から自分のこどもがという意識もなかったからね。
居なくなったときも悲しくなかったけれど、
居なくなってからなんだかとても寒く感じたわ。
でも居なくなってせいせいしたのは確かなのよ。
皇帝の息子だったんですから。”

 直井くんのためにパンを買いに行きながら、私は榮妃と会話していた。
「ふつう皇帝のお嫁さんになった人って子供生もうって必死じゃないの?」
“必死なのは生家なんであってわたしではないわ。
後宮の女なんて全く切り花ですからね。摘まれて活けられて渇れて棄てられて、それだけよ。根もなければ実も残さない。清々しいと言えばそういう人生だとわたしは思っていたわ。”
「でも貴方は清々しいどころじゃなかったんでしょう。」
 会いたい人と、会えずに死んだんだから。

“ああ、そんなことはどうでもよいのよ。どうせ初めからそう何度も顔を観たことがあった訳じゃないのだから。ねえそれよりもあなたは今以上に悪いことが起きればいいと思っているのね。”
「でも起きないんだって言われちゃった。」

“そう。
悪いことは起きないのよ。その悪いことは、あなたが望んでやまないことなんだから。わたしの望みが叶わなかったように、あなたの願いも叶うことはないでしょう。わたしはなんだかそんな気がするのよ。”


「自分が運が無かったからって酷いなあ。」
と、私が言うと、姿のない声のない榮妃は、風のように、ふうっふっ、嗤った。

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