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森と雨 21

「雨先輩」
 むいちゃんが心配してくれるから泣かずに済んだだけだ。私は悲しくて。どうしてもっと早く会いに行かなかったんだろう。あの森の中でレアンはずっと私を待っていたのに。いや違う。私はずっとレアンを待っていたのに。いや違う。私は、ずっと、自分自身の事を待っていたのに。
 もう一人の自分。私の大好きになったレアン。初めて会った時の笑った顔それだけ。それだけが、堪らなく心の中にあったのに。なぜもっと早く会いに行かなかったのだろう。あの笑顔を観た時に私は確かに思ったのだ。
 ああ、この人です。
 会いたい。そう思った。タクシーは確実に私たちを目的の場所に運んでくれた。警察署の支所。レアンがとりあえず拘留されている場所。
 ああ、この人です。私が会いたかったのは、この人です。他には何もいりません。だから、返して。現実の中にもう一人の私を返して。
 タクシーが止まって、ゲンゴが料金を払っている間に、私は居てもたってもいられなくなって、また駆けだして、
「おい、雨」
 ゲンゴがあわてて叫ぶ声が聞こえた。私は自動ドアを通り抜けると、受付の人に
「示談にします! 訴えません! だから大広礼安は何もしていません!」
 と大声で叫んでしまった。レアンに会わなければ。一刻も早く。会わなければ。
 カウンターの中の女の人は
「なんですか、あなたは」
 この上なく冷酷だった。そしてゲンゴも同じくらい冷静だった。
「すみません。一昨日ここに収容されている大広礼安の、身内の物と、被害女性なんですが、ちょっとお話させていただくわけにはいきませんか」
「はあ?」
 なんなんですかあなたたちは。ゲンゴは真摯に説明したと思う。でも、受付の女性はとことん迷惑そうだった。私はもう一度、示談にする。訴えることはしたくない、だからレアンに罪とか責任はないんです、と強く訴えたんだけど、女性たちの反応は変わらなくて、うるさい学生が面倒を運んできたなあという目で見ている。
「ですから。身内を代表してご相談に来たものです。こちらに強姦容疑で収監されている大広礼安という学生がいる筈なんですが」
 ゲンゴの落ち着きに救われた。自分には関係のないことだと、全く身を入れて聞こうしない警察官たちに、粘り強く話し込んで、その間私はむいちゃんに手を握られたままバカになって突っ立っているだけだった。
「大丈夫ですよ」
 とむいちゃんは言ってくれた。
「今、そこにいるのが被害女性です。僕の知りあいの女の子なんですがね。彼女は大広を訴える意思なんてものはないんです。おまわりさん。これは若いもんの痴情のもつれってやつですよ。ご迷惑をおかけして申し訳ありませんが、ともかく話をさせてもらえませんか」
 ゲンゴは、少しずつ状況を飲みこみ始めた警察官相手に何度も何度も同じ話をした。おまわりさんというのは、テレビで観たのと寸分変わらず、同じ話何度も繰り返さないといけないシステムになっている人たちみたいなのだ。
 ゲンゴの説明は小一時間は続いた。その間。私はむいちゃんと一緒に、本当に、ただ立っていた。私だって緊張でめまいがしてきそうだったけど、付き合わされているむいちゃんはもっと辛かっただろう。心無い警察の人達からまるでむいちゃんまで悪いみたいな目で見られていたのだから。なんて酷い人たち。と思ったんだけど、私に出来ることは何もなかった。
 でも、私はとうとう見えたのだ。暗くて長い廊下の向こう側から、警察官に両腕を掴まれるようにしてやってくる。
「雨先輩!」
 むいちゃんが叫ぶのよりよっぽど早く私は賭けだしていた。レアン、レアン、レアン。警察官は無表情に、レアンをひっぱってこちらに向かっていた。私は警察署の廊下を全力で走って、そのまま警官を振り切って、レアンに抱き着いたんだけど、走ってきた勢いでそれはタックルしたみたいになってしまった。レアンは驚いたみたいだったけど、その力は思った以上に強くて、私をしっかり抱きとめたまま。二人でリノリウムの床に転がり落ちた。
「雨」
 レアンが私を抱きしめて、私の髪の毛がレアンの身体全体をくるんだような形になった。ああ、ここが私の待っていた場所。
「会いたかったわ」
 やっと会えた。そう思ったら、私は恥も何もなくて、わあわあ泣いてしまった。
「俺も」
 私を抱きしめたまま、廊下に倒れたまま、レアンが嬉しそうに言った。私は涙が止まらなかった。何にも分かってないくせに。私の事なんて、一生何も理解してくれないくせに。ただ、傍にいてくれるだけのくせに。なのに、そんなこと何も知らないで。
「会いたかったよ」
 全部分かったような声で言うのだ。そうでしょうね。全部分かっているでしょうね。
「やっと会えたね」
 私はしゃくりあげながら言った。そうだよ。やっと会えたんだよ。
「ああ。俺はもうこれでいいや」
 私は警察の廊下に倒れたまま泣き続けて、レアンバカみたいにあはははははは、と笑い続けるのだった。

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