花荼-ハナダ 11

「自分と、自分の言葉の間で迷子になっちゃったみたいだったの。そういう小説を書いていたわ。自分は確かにここで原稿を書いているのに、君が確認しているのは僕の文字だけだ。僕が綴った文字だけだ。一体僕がどこに存在していると言うんだ。ってね」
「君は、よっぽど氏の本を何度も読んだんだね」
 そこまで内容を暗記しているのなら。僕は、そう言った。
「何も丸暗記している訳じゃないのよ。でも、内容は忘れない。言葉は其処に在る。でも僕はどこに居る? あの人が繰り返し悩んでいたテーマ。死にたくない作家って居ないと思うの」
「いるよ、たくさん」
「そんな人知らない。ただこの人が死にたいなら、私が傍に居たいと思っただけ、だから手紙を書いただけ。断られたら、それだけ、でもこの人は断らなかった。約束を守ってくれた。それだけ。だから私はとても嬉しかったの」

 彼女の執着の正体は分からなかった、僕には最後まで分からなかった。文字だけで、読書しただけで書き手にそこまで入れ込めるものだろうか。僕がそう聞くと、彼女は当たり前じゃなあい。とだけ言った。
 氏の寝袋を放置している間、僕は主に山の中を歩いて暮らした。燃やすための木を集めるためだ。僕は、太い木を切ることが出来なかった。だから手が届く範囲の枝を折るか、落ちている枯れ枝を拾って歩いた。木は、なかなか集まらなかった。僕が怠けていたわけじゃない。僕は本当に毎日毎日、ロッジの周辺を何周も歩き回って、枯葉や枯れ枝を必死で拾って歩いたのだ。ただ、人ひとりの身体を燃やしてしまうのに必要だと思われる木の量が、半端なかったのだ。腐らせているとはいえ、六十キロの肉と骨を形が無くなるまで燃やしてしまわなくてはならない。相当の火力が必要だ。僕は、歩いて歩いて、木を集めた。
 彼女は、飽くことなく氏の寝袋の傍に居た。僕が両手にいっぱい枝を抱えて戻って、それをよく燃えるよう乾かすため、もう一つ別のロッジの中に並べている、その間ずっと、氏の傍にいた。
「一体どんな本を読んだの」
「樹木の話」
 と彼女は言う。僕たちが話すのは、夜眠る時と食事をするときだけだった。彼女は一向に動こうとはしなかったし、幸い天気が崩れることは無かった。(夜の間少し雨が降った。僕は、眠りながら雨音を聞いて、ロッジの窓は開けている、せっかくの薪が駄目にならないだろうかといらいらした。氏の身体が腐ってしまっても、燃やす木が無ければ荼毘も何もあったもんじゃない。)
 相変わらず僕は米を煮て、缶詰の中身をいろいろと入れてみては、彼女と二人、鍋の中身を分け合った。僕はなるべく食料をもたせるために、鍋の中の食べ残しに更に水を入れて煮直して、それで一日を終わることもあった。水だけ飲む日もあった。彼女が話したように腹はなかなか減らなかった。あんなに歩き回っていたのに。そして僕はまた森の中で枝を拾った。彼女は、氏の傍を離れなかった。
「樹木の話って、どんな」
 ある夜、明かりの無い、ランタンさえつけていない真っ暗なロッジの向かい合ったベッドの中で僕は彼女に聞いた。ランタンは、買っていた。でも僕たちは点けなかった。僕は昼間歩き回ってくたくたになっているし、彼女は言葉が少なくなっていた。いや、彼女の中にももともと話す事なんて、会話のストックなんて無いんだろう。ひたすら、氏の物語だけが入っているだけなんだ。しかし名前も聞いたことのない作家だ。きっと著作も少ないに違いない。彼女にとって、きっと世界はそんなものだ。物が少ない、狭い空間だ。夜が来て真っ暗になると、僕たちはすぐ眠ってしまった。
「樹木?」
「都会に住んでいるのに、不思議と山とか森の話を書く人だったわ。樹木の神様とか、山の王の獣とか。そういう話。それや、夢の話」
「夢か」
「眠って。森の中にいる夢を見るの。初めて見る夢なのに、夢の中では何度も見たことがあるって思う、そんな夢。大きな木が立っていて、幹が太くてコケがたくさん生えている。そこに一人で立っている。そんな夢。そして。そこにさっきまで誰かが居た気配が確かにある。そこで私は、貴女に会ったような気がする。でも貴女はもう行ってしまった。もう、二度と会えないのだろう、そんな気がする。私はそれが哀しい。でも、もう会えないのだから仕方がないのだ。そういうお話よ」
 聞きながら、僕はゆっくり眠りに入った。脈絡もなく、起伏もない。自分の作風に酔っているような書き手だ。そう思ったからだ。僕の趣味ではないなあ。もっとストーリーで読ませてほしい。作家の中には、比喩とか描写で行くスタイルもあるのだろう。それにしても夢の中で会ったその人は、一体誰だったんだろう。いや。会えなかったその人は、なぜ彼をそこまで悲しくさせたのだろう。
 眠りながら、彼女が言葉に恋をしたのを僕は悟った。誰が書いても構わない。寝袋の中身が誰であっても構わない。ただ、言葉に恋をした。
 山に放置してから、一月程立っていた。人は死ぬと身体が膨らんでガスを発すると聞いたことがあるが、密閉されている寝袋は、そのためか膨らんできていた。
 僕は極力近寄らなかった。臭いが。彼女はそれでも、寝袋から離れなかった。僕は山を歩き回った。薪を拾いながら、だんだんと儀式めいてきた自分を感じる。
 僕は祈っていた。何を祈っていたのか、判断が難しい。氏の冥福か。いや、違う。そんな訳がない。僕は、彼女の幸福を祈っていた。いや、違うな。僕が薪を拾いながら祈っていたのはきっと、彼女の冥福だ。彼女は生きていて幸せになれる子じゃない。

 膨らんでいた寝袋がしぼんで、平になったころ、僕が山から折ったり拾ったりしてきた木も相応の量になっていた。ロッジの床をいっぱいにするくらいだ。臭いにも、慣れてしまった。なんでも時間をかけると慣れてしまうものだ。冷蔵庫が臭くなることだってあるだろう。ちょっと大きさが違うだけじゃないか。小さくなった寝袋の周辺は、しみ出した腐敗液でべとべとしていた。
「もういいよ」
 かくれんぼの合図みたいに言うと、彼女は飛び上がって喜んで、喜んでいたから、僕に抱き着いて頬を摺り寄せてきた。そんなことをするとは思わなかったので、僕は頭の中身が冷えた。
「どうしたの」
「お礼を表現しようと思ったんだけど、他の方法を知らないの」
「服を脱いで、股をひらいてくれたらいいんだよ、そういう時は」
「そういうものなの?」
「そんなわけがないだろう。君みたいな若い女の子が」
 とりあえずだから、僕は彼女をお返しに抱きしめたのだった。僕たちは手分けして薪を運んだ。
「おそらく跡形もなく燃えてしまうはずだよ」
「うん」
 彼女の声は潤って、幸福に満ちていた。それでいて、恐ろしく不幸だった。それなのに、幸福で満ちていた。なぜなんだ。君の大切な言葉はもう二度と生まれないんだ。それなのにどうして、未だに幸福で居られるんだ。
 氏の寝袋の傍に、次から次から薪を撒いた。細い枝はカラカラに乾いていた。寝袋が全く見えなくなるまで木を積み上げたのだった。僕たちは。彼女は走って薪を取りに行き、はらはら落としながら戻ってくるのだ。僕は彼女が落とした木の枝を拾って集めると、やっぱり氏の上に撒いた。
 集めておいた薪が無くなると、僕はロッジからガスコンロが入っていたボール紙を持って来て、それから家の中で乾かしておいた木葉が入ったバケツも持って来て。ボール紙を適当な大きさにちぎって、なるべく空気が入るように重ねてライタ―で火を点ける。ゆらりとした炎がすぐに上がった。僕はボール紙がよく燃えるように、少しずつ位置を動かした。そしてその上から木葉を掛けた。薪の傍で。火が消えてしまわないように、丁寧に木葉をかけた。
 薪に火が移る。よく乾燥していた。ばばばば、と音が上がって、予想していた以上に早く火は燃えあがった。これは、もしかしたら死体から出たガスがまだ寝袋に残っていたからかもしれない。
「危ないから離れるんだ」
 彼女は、氏の寝袋が置いてあった場所から少しだけ離れて、そこに座った。そして、
「ここにいる」
 と言った。
「満足したか」
「まだ。この火が、消えてしまうまでは」
 静かな。幸福に満ちた声だった。火は燃えた。ばりばりと薪をかじるように燃え広がった。煙はあまり出なかった。木がよく乾燥していたからだろう。ばりばりばりばり燃え続けて氏の寝袋を炎が包んだ。彼女はその様をずっと見ていた。
 一人に、させてやった方がいいんだろう。僕はたき火を背にしてロッジに向かう。二か月本当に経っただろうか。五キロの米袋は、まだ少し中身が残っていた。しかし、僕は歩いて歩き回ってあれだけの量の木を集めた。それが時間の経過を現さないだろうか。でも感覚が湧いてこなかった。ただ、疲れていた。
 ロッジの窓から赤い火が見えた。布団のような火だと思ったら眠くなった。少し寝るか。眠って、樹木の下にいる誰かに会いに行くか。そう思った自分に苦笑した。でも眠いのは確かだ。寝よう。どうせ、することは無い。

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