書くことの意味

ここのところ、短歌だエッセイだと書いているけれど、まあ難しい。本当に難しい。

わたしは書くことを仕事にしていて、どちらも最終的なアウトプットは同じ「文章」であるけれど、そこまでのプロセスが全然違う。

仕事であれば、わたしは主に取材記事を書いているので、インタビュアーの言葉や、確実なファクトやエピソードがそこにある。もちろん、それをそのまま書くわけではなくて、読者に伝わるように構成を考えたり、言い回しを変えたりするわけで、そこでわたしたちは力量を発揮するわけだ。

しかし、短歌やエッセイといった創作の文章は、ファクトやエピソードはいろんな視点で切り取り可能であり、何よりまずそこに語り手(つまりはわたしだ)の言葉がない。……いや、なくはない。でも、それはそのまま出すにはあまりに未熟なもの。だいたい「こんな雰囲気のことを書きたいなあ」というぼんやりとした輪郭の定まらない何かだ。

そこから一つひとつ、自分の奥底に沈んでいた感覚や感情を掬い上げ、輪郭を掘り出して言葉を当てはめ、文章にしてゆく。途方もなく先の長い薄暗い闇の中をひとり歩き、探り当てていくようなイメージだ。

うまくいくこともあるし、うまくいかないこともある。というか、うまくいかないことの方が多い。

当たり前だけど、感覚や感情は言葉よりも先にあるものだから、必ずしもピタリと当てはまるものを見つけられるとは限らない。仕事柄、それっぽい文章がなまじ書けてしまうだけに、いつの間にか「書きたいこと」から乖離して、書きやすい方、書ける方へ流れていっていることも多くて。そして、無事に書き終えたとしても、ごく個人的な話を“読ませる”ものとすることはさらに難しい。

でも、それでも書く。

わたしは書かなければ生きていけないタイプの人間ではないけれど、書くことでしか触れられない感覚や感情のヒダが自分の中に確実にあることを知ってしまったから。忙しい毎日の中でうっかり見落としてしまった小さな心の動きや、うっかり聞き落としてしまった心のささやきを拾い上げ、ホコリを払って輪郭を整えてあげることで、わたしはちゃんと生きているなあと実感できるのだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?