見出し画像

小学校というひとつの社会

この記事は、かなり個人的な主観で書きます。

子どもが学校へ行き渋るようになった頃、わたしはその原因をなんとか突き止め、潰していこうとしていた時期がありました。

先生たちと話し合いも何度かし、許可をもらい、毎日子どもと一緒に学校へ行っていた時期もあります。

教室の外から子どもを見守り、大丈夫そうだなと判断できれば帰宅する。子どもからいて欲しいと言われれば、校内をあちこち散策しながら、何時間も待っていたりもしていました。

そんな生活の中で感じたことは、「小学校というひとつの独特な社会」の存在です。わたしが知る「社会」とはまた別次元の、独特の世界観があると感じました。

例えば、大きな声を出し、子どもを威圧するかのような注意の仕方をする先生がいます。「お前ら!」などの言葉も使っています。そんなこと、一般社会ならばパワハラになります。子ども相手なら許されるのでしょうか。

例えば、子どもがひとり、教室の後ろの壁にまとめてかけてあるネームプレートを、まだしていなかったことに気が付き、「座って待ちなさい」と指示を受け先生が教室に戻ってくるのを待っていました。その子は、先生が戻る前にネームプレートを取りに行くか、このまま座って待つべきかを悩んでいる様子。わたしは、ネームプレートをとってその子に渡そうと思い一歩踏み出したところで、その子は自らネームプレートを取りに行くために立ち上がりました。しかし、数歩あるいたところで先生が戻ってきて、「なんで立ったの!」と注意しました。その子はネームプレートのことを伝えようと息を吸い込みましたが、「座りなさい!」と言われ、着席しました。理不尽すぎます。理由くらい聞いてあげてほしい!そんな小さな理不尽は、無数に散見されました。

例えば、子どもが「小学校を休んではダメです!」と指導を受けました。小学校へ通うことは子どもたちの権利であって、義務ではありません。子どもたちは選ぶことができるのです。休む権利を奪われる必要性はありません。

例えば、授業に付いていけない子や、団体行動のスピード感に付いていけない子は、支援級へ行くよう先生から親へ促します。なぜ?一般社会では、自分と違うからといって、そんなに簡単に人を排除できません。どう共存し、認め合って行くかが重要です。なぜなのかと学校側に質問すると、「授業が遅れるから」との回答がありました。「授業」とは、子どものためにあるもののはずなのに、その子どもを置き去りにして行う意味がわかりません。その「授業」は、「先生が円滑に行うためのもの」「親から苦情がこないためのもの」に、傾いてしまっています。

例えば、支援級と通常級を、時と場合により行ったりきたりしている子がいました。その子の学びをより良いものにするために、その子担任の支援級の先生と通常級の先生とで、どんなことを話し合ったりするのか聞いてみたところ、特にそのような時間はとっていないし話していないとの回答でした。「基本的に支援級にいる子の責任は支援級の先生がもつルールなので。」と。先生たちの横の繋がりは薄く、みな個人業という印象を受けました。

例えば、子どもたちが完全に学校へ行かなくなりしばらく経ったころ、「給食をうちの子の分はもったいないのでつくらないでほしい。家で食べているので給食費の支払いも止めてください。」とお願いしたところ、「それはできません!そんなことをしたら、益々学校へ来にくくなってしまいます!」と言われました。そのため、「給食費を払い続けているのだから給食だけでも食べに行ってよ!と思ってしまい、親の心の衛生上良くないので子どものためにもならない。止めてください。学校へ来て食べる様なことがあれば、割高でもきちんと個別に払いますので。」と、再度お願いしたところ、「前例がない。どんな親にも払ってもらってる。」との回答。「そんな理不尽なことが通るわけがない。学校としての対応を見直してください!毎日何百食も余っている給食を余分に作り、そのお金を払えとはおかしすぎます!」と訴え、給食を止めるのに3ヶ月かかりました。無駄にした食材さんたち、大変申し訳ない・・・。

校長先生に、「小学校とはなんのためのものなんですか?」と聞いたところ、「子どもたちが集団行動を学ぶ場です。」とおっしゃいましたが、「整列!!喋るな!!そこ!!」などと言われる大人の社会なんて、ごくごく一部です。本当に集団行動を学ばせたいのなら、もっと先生方の横の繋がりを強化し、互いを認め合い協力し合う様を子どもたちに見せては?と感じました。

わたしの感じた「違和感」は、まだまだ本当にたくさんありました。テストって必要?たったひとりの大人の主観で格付けされる通知表って必要?などなど。結論として、「社会に出るための訓練になる場所とは言い難い面がたくさんある。」という判断に至り、後に、子どもたちの選んだ不登校という選択を受け入れる結果へと繋がりました。

「小学校」を体感して思ったことは、全て「子どものため」に行われるはずのものが、「先生の効率」と「テストで良い点数をとってもらいたいと願う親の満足」を満たす基準に傾いてしまっているという現実。

なんとかそれを変えたいと奮闘する素晴らしい先生方をガチガチに縛るシステムが、完全に出来上がってしまっているという現実。

人口は減り続け、日本企業の価値は世界基準で落ち続け、学歴社会など存在しなくなっている現実を尻目に、「テストで良い点が取れること」に囚われ、それを「学校」に求め続けている保護者の多さ・・・。

そして何よりも、そんな独特の「小学校」という社会が合わず、ものすごい勢いで増え続けている不登校児。不登校の子は「やっぱりちょっと変」と認識される社会のあり方。これは、大きな大きな社会問題だ!

と、ものすごい危機感に襲われたのでした。そして、そんなことにも気が付かず、何もせず、声を上げることさえしなかった、無関心だった自分を痛烈に悔やみました。

ここから、自分にできることはなんだろう・・・という、自問自答が続き、現在行っている「北海道に、生きていくために必要なことが学べる小学校をつくりたい!」という活動へと繋がるのでした。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?