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Nosutarujikku novel Ⅰ      シスター葉子 夏の章   


 予備校が運営しているビルの一階は、某大手の楽器店の音響ショールームとなっており、名だたるメーカーのスピーカーが綺麗に並べられていた。このショールームは、持ち込まれたレコードをプレイーヤーでジャンルに適したスピーカーで試聴できるサービスを行っていた。
担当は芹沢さんで、ロマンスグレーの紳士然たる人であったが、とても気さくで楽しい話もされるので、僕は時々LPを持ち込んでは、この空間で寛いでいた。数少ない高校時代の僕の友人に高橋君がいた。彼は現役で有名私立大を合格していたが、大学は面白くなく、好きな音楽のレコードを収集することに一生懸命だった。そんな彼から連絡を貰ったビートルズの最新盤(イギリス直輸入盤)を手にいれたから君に譲るという内容だった。

神戸線のとある駅前の喫茶まで僕は出かけた。
彼は既に来ていて、手を振った。
「やぁ・・・久しぶり」
「ほんとうだね・・・年明けに京都のJazz喫茶に一緒に行ったきりだ
 ね」
「君は三浪だから、さすがに声をかけにくくてね・・・それにちょっ
 と、身体を壊していたんだ」
「何処が悪いんだ、また胃腸か?」
「どちらかというと」少し間を置いて頷きながら
「心療内科」

僕は驚いた。あれほど快活で人を愉しませる友が・・・精神を病むなんて・・・<心療内科>僕には無縁だろうか?と考えながらショールームへ急いだ。後年僕は<心療内科>に通う人達と仕事をすることになる。

 ビートルズのほんとうの最終盤と言われている「Abbey Road」より先に録音されていたという「Let It Be 」のアルバムは日本発売日は6月だったが、彼の御陰で早く聴けるのがとても嬉しかった。芹沢さんに手渡して僕は中央の席に座った・・・暫くして驚いたことに僕の横に葉子さんが座った。
「あれ、どうしたんですか?」
「どうって、君が何やらアルバムを抱えてショールームに入って行った
 から、後をついてきただけよ」 彼女の手には煙草がワンカートンあっ
 た・・・銘柄はショートホープだった。
「10本入りだから嵩張らなくていいのよ」
「そうか・・・ピースとホープ良い勝負ですよね」
「何が良いか・・・わからないけど」と言ってにっこりした。用意が出
 来て芹沢さんが合図をした。

 こうして、二人は短い時間だったけど一緒にアルバムを聴いた。3曲目を聴いて「もう、もどらなくちゃ ありがとう」
と言って葉子さんは席を立った。僕は手を振って「後で行きます」と言ってその不在を埋めるかの様にしてアルバムに聴き入った。
全てを聴き終えて、何だかこのアルバムはポールの<ビートルズ>に対する惜別の愛歌のように感じた。 Let It Beは<あるがままに=静・為すがままに=動>ということだと感じた。
僕は迷わず為すがままに・・・前へ・・・前へ


 夏の誕生日のことを僕は、葉子さんに伝えずに一人で一日一日と過ごし気がついた。葉子さんだけのことを考えていると・・・そして無口になった。
週に2度3度と喫茶を訪れるので、手紙を書ききれなかった。手紙は会えないからこそ書けるのだと想いもしたが・・・「手紙はどうしたの?」と言われるのが辛かった。
                   
 誕生月のある日、葉子さんから封筒に緑の葉で封をしたものを会計の時にそっと渡された。 「後で読んでね」と早口に言ってにっこりした。「ああ、ありがとうございます」内容も分からずにお礼をしたので、又笑われた。

 地下鉄の駅のベンチで封を開けると一枚の便せんが4つ折りにして入っていた。向日葵が影絵のように薄く透きとおった便せんに柔らかな文字がやや右肩上がりにインクで書かれていた。それを噛みしめるよう一字一字読んだ。

「誕生日にあなたにあげる言葉

ぼくは二十歳だった。それがひとの一生でいちばん美しい年齢だなどとだれにも言わせまい。
 
  ポール・ニザン著 「アデンアラビア」より 
                 
P.S:横道に逸れないで・・・でももし逸れる時は思い切りよく・・・
   いずれにしても応援してます。                  葉子」

  僕は泣いてしまった・・・そして、悦びに満たされて微笑んだ。
家に帰りモディリアーニ展のポスターをベニヤ板に貼り付けた大判の『マルグリットの肖像』を後先考えずに持ち出しタクシーを止めて、無理矢理積み込ませ運ばせた。

  僕は喫茶のドアーを開けて、「ありがとうございました」と深々と頭を下げ「これ、ささやかなお礼です」とポスターを差し出した。
僕の勢いに圧倒されて黙ったままだった葉子さんは、
「まあまあ・・・驚かせるのがお上手ね・・・負けたわ」
「モディリアーニはお好きですか?」
「ええ、大好きよ。肖像画を描く作家は大抵・・・でも、これ君の大切
 なモノじゃないの?」
「だから、貰って欲しいのです」
 深く頷いて「いいわ、頂くわ、ほんとうにありがとう」
「一杯だけ付き合って」葉子さんはそう言って、素早くグラスにお酒を
 ついで、「乾杯しましょう!」と言い放った。
お互い和やかな微笑を浮かべて杯を飲み干した。
この日以上の誕生日のお祝いは訪れていない。

                         秋の章に続く


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