マイポスト

おとなとこども2 人生ではじめて本を読んで泣いた日の話

 「おとなとこども」が「対等」であることはどんな意味があるのだろう。対等とは、フェアである代わりにときに残酷。前回の記事で「残酷」にスポットをあてた母とわたしのエピソードを書いた。

 こどもの頃のわたしにはそれを俯瞰的に見て「残酷だ」と思うことはできず、そこにどんな意味があるかもわからず、ただびっくりした体験として存在しているだけ。おとなになり、振り返ってはじめて、それぞれの記憶がどんなふうにわたしにとって意味を持っていたのか、を言語化できることが多い。言語化してはじめてどういう影響があったのかが理解できるのだ。

 今日は、その1つ。振り返って、あの経験は今のわたしには貴重だったなあと思う母との「本」を通した関係性の話だ。今度は「残酷」ではなく「信頼」の話。

***

 わたしは、本を読むのが好きなこどもだった。友達からの「遊ぼう!」という電話がかかってきても「読みたい本があるから」という理由で誘いを断ったりするくらい。

「母と同じ本」を読んでいる自分が好きだったんだと思う。

***

 はじめて本を読んで泣いたのは小学校低学年のときだった。「アンクル・トムの小屋」を読んで、息ができないくらい泣いた。ご飯の時間になってもわたしは食卓に向かうことができなかった。18時になったら箸やお茶碗を出すのはわたしの係で、それを忘れて遊んでいると怒られる。時計の針が18時を過ぎているのは知っていたけれど、生まれて初めて知ったどうにもならない苦しみをどう処理していいかわからず、嗚咽をもらしながら、わたしは自分の勉強机から立つことができなかった。きっともうすぐ母が呼びにきて、怒られるに違いない。

 だけど、母は30分過ぎても呼びに来なかった。わたしもお腹が空いてきて、ようやく呼吸も落ち着いたので、ティッシュで涙と鼻水をぬぐい、意を決して食卓へ行く。声もかけにこないなんて、めちゃくちゃ怒っているのかもしれない。

 テーブルでは父と母と弟がいつも通りご飯を食べていた。わたしの出すはずだったお箸やお茶碗はちゃんと並んでいる。母はわたしに気付いて「なにを読んじょったん?」と聞いただけで、怒ったりはしなかった。いや、本当は怒っているのか……? おそるおそるわたしは席につき「アンクル・トムの小屋」と答えた。母が炊飯器からわたしのお茶碗にご飯をよそって渡してくれた。謝ったほうがいいのよね。食事の時間に遅れたこと、怒ってるよね。とご飯に手をつけてよいのかどうか迷っていると、母は言った。

「母さんも、あの本をこどものころに読んで泣いたんよ。つらいよね。どうしていいかわからんよね」

 わたしは、はじめて読んだハッピーエンドとは言い難いお話について、なんでトムはこうしたん? なんでぼっちゃんは早くきてくれなかったん? なんでトムはいじめられたん? そういうのが嫌だったの、と、泣いている自分の言い訳をするように、話をした。黒人奴隷の歴史をそのときのわたしは知らなかった。
  
母は怒っていなかった。わたしは湯気のたつご飯の上に、ポタポタと涙を流してしまった。すぐ泣く泣き虫なわたしはイヤダイヤダと泣くといつも母に怒られていたけど、その日はそれでも怒られたりはしなかった。ほとんどご飯は食べられなかった。ご飯を残しても怒られはしなかった。

***

 母がなんて言ったかは全部忘れてしまったけれど、同じ本を母と共有したあの日の食卓は、わたしの読書体験の原点である。

 母と同じ本について「対等」に語り合ったのは初めてだった気がする。絵本の読み聞かせはよくしてもらっていたけれど、「おとなとこども」ではなく、「ひととひと」として感想を交わしたのはきっとこれが初めてだ。本を読んでいてわからないことがあるとき「これってどういうことなの?」と聞くとだいたいおとなは教えてくれる。そしてそれが正解となる。なぜならおとなはこどもよりも物知りだから。
 だけど、このときは、母はわたしより物知りではなく、ただただ一緒にお話について考えてくれた。おとなの知っていることだけが正解ではないのだ。わたしはこどもだけど、わたしの中にあるものだって決してまちがったものではない。そういう安心感を、「対等」の中で見つけることができたのだ。

***

 こうやって書いてみると、あのとき黒人奴隷の歴史についての授業がはじまらなくて本当によかった。わたしが知りたいのはそういうファクトではなく自分の感じた気持ちの正体だったから。だって生まれて初めて本を読んで泣いたのだもの。

 やっぱりわたしは「対等」に心を守られていたんだなと気づく。家族のルールはやぶったけれど、それよりもわたしのそのときの気持ちを優先してもらえたこと、話を聞いてもらえたこと、受け入れてもらえたこと。それは20年以上たった今でもこんなにわたしを守っている。

  わたしはそれからも“字が小さい本”をたくさん読んで母に勧めて、母もそれを読んだし、母が好きだった本をわたしも読んだ。読み終わって母の感想を聞くのも、自分の感想を伝えるのも楽しみだった。「さあ! 感想を議論しようではないか!」みたいな正式な感じじゃなく、日常会話の延長で。一言二言だけだったと思うけれど。母の好きな「よだかの星」や「二十四の瞳」は難しくて、そういうときは正直に、よくわからなかった、と伝えたりもした。

 本を通した「おとなとこども」の「対等」な関係は、わたしにとって誇らしく心地よく安心できる関係だった。

 わたしはたまたま本だったけれど、絵でもいいし音楽でもいいし、スポーツ観戦とかでもいいのかな。「おとなが教える」ではなく「ともに感じる」経験をつくりたいと、わたしはこども向けの読み物を作りながら、娘と接しながら、常々思っている。


最後まで読んでくださり、ありがとうございます。リアクションがとても励みになります。サポートももちろんですが「スキ」や感想もとっても嬉しいです。