「グランメゾン東京」第1話レビュー

ミッキーの中身はだぁれ??

 木村拓哉のドラマというのは、ソリストに木村拓哉を据えた協奏曲だった。もちろんバンドも一流であったが、やはり木村拓哉のために全てが用意されていた。いかに木村拓哉を見せ、いかに木村拓哉を聴かせるか。全ての力点はそこに向かっていた。しかし、「グランメゾン東京」はその中でも異質な形式を取っているように「見える」。いつも通り木村拓哉のドラマを見ようと思った私であったが、そこに広がるドラマは違うものだった。私の印象では「鈴木京香のドラマ」だった。いや、その印象も正確ではない。言うなれば、木村拓哉、鈴木京香、沢村一樹のスリーピースバンドのドラマだ。木村拓哉は唯一無二のソリストではなく、一つの楽曲を成り立たせるための楽器の一つとしてそこに存在していた。まるで、椎名林檎が東京事変の中に組み込まれているように。

 演出としてはごてごてしている印象が強い。無駄に多いカット割り、BGM任せの展開、沢村一樹もいまいち熱くなりきれていない。キムタクと鈴木京香は平常運転。うだつのあがらない鈴木京香は「刑法三十九条」「ラジオの時間」以来のモチーフ。新鮮味と斬新さにはやはり欠ける。が、その反面安定感は抜群。及川光博、尾上菊之助と脇を固める俳優陣も豪華かつ実力もある。なんというか、新築の一戸建てに初めて入るわくわくというよりかは、伝統的な建築物を拝観している感覚に近い。比喩でまとめがちだな。

 ストーリーとしては、一度名声を失った料理人が再起をかけてやはりうだつのあがらない中年女性シェフと過去の戦友と共にグランメゾンを作っていくというパワプロポケットのようなお話。ここにも新鮮味はない。
 一番そそられるのはグランメゾン東京のライバルとして今後活躍するであろう尾上菊之助演じる「gaku」の料理長、丹後。丹後は「gaku」のオーナーである江藤の言いなりとなり、いわゆる雇われシェフとして、自分の信条とするものとは異なる料理を作る。そう、全てはミシュランの星を手に入れるため。1話では見事二つ星を獲得している。
 もちろん、丹後は自分が作っている、作らされている料理が「客を喜ばせる料理」ではなく「星を獲るための料理」であることは理解しすぎているくらいに理解している。自分が本当に作るべき料理ではないことをわかった上で、その料理を作っている。この態度は資本主義社会において一番大切なものである。
 ディズニーランドのミッキーの家に行ってミッキーと写真を取っている人は「ミッキーの中に誰かが入っている」ということは重々わかっている。わかった上で、目の前にいる着ぐるみをミッキーとみなし、写真を撮る。着ぐるみの中に隠されている「真実」に気が付きつつも、「真実」に気づいていない振りをする。私は「ミッキーの中身理論」と呼んでいるが、この姿勢は資本主義社会の中でいたるところに見受けられる。まさに丹後はこの理論の体現者として物語に立ち現れる。まさに、資本主義を生きる市民の象徴とも言える。
 木村拓哉演じる尾花は、自分の理想とする料理しか作ることはない。明らかに丹後のアンチテーゼとして立ちはだかる。しかし、資本主義の中の正義は丹後にある。尾花の理想は、あくまで理想にすぎない。
 しかし、木村拓哉はありとあらゆるドラマで現実を理想で打ち破ってきた。今後この「資本主義の正義」と「資本主義の現実を打ち破る理想」の相克はどのような展開を見せるのか。

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