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ナショナリズム幻想と「発話」による排除

「〇〇人である」という規定の不可能性 

「日本人」とは一体誰なのか。
 結論から言えば、「日本人」なんていないし、「純粋な日本人」なんてもっと存在しない。誰しもが「この人は○○人である」と本当の意味で規定されることは決してない。これは具体例を見ればすぐにあっという間に論証される。

 たとえばドナルド・キーン。彼は「何人」なのだろうか。

 日本文学研究者のドナルド・キーンは1922年にアメリカ合衆国のニューヨークで生まれた。その後、日本文学の研究を志し、2012年には日本に帰化し、日本国籍を取得した。
 ドナルド・キーン・センター柏崎のHPの年表にも「2012年3月、帰化申請が受理され日本人となる」と記載されている(太字は筆者によるもの)。

 ドナルド・キーンは「日本人」なのだろうか。いや、「日本人」であることは間違いない。日本国籍を取得し、そして書いているこの私も日本国籍を持っていて、そして日本国籍を持っている私が「日本人」であれば、やはりドナルド・キーンも「日本人」であるはずだ。本当に?

 ドナルド・キーンの父親はアメリカ生まれではなく、ロシア出身であり、そして2歳のとき(1899年)にアメリカに移住した。母親はニューヨーク出身。その両親の出自を考えると、ではドナルド・キーンは「アメリカ人」だったのだろうか? 母親はアメリカにルーツがあるが、父親はロシア出身であり、ロシアのルーツはどう考えるべきか。「ロシア人」と「アメリカ人」という「民族性」を併せ持っているのだろうか?

 もっと言えば、父親はロシア出身ではあるが、そのときのロシアは「ロシア帝国」であり、現在の地図でいえばリトアニアにあたる場所が出身地となっている。父親が生まれたときはまだ「ロシア帝国」だった。そして父親がニューヨークへ移住した1988年の20年後、1918年にリトアニアはロシア帝国から独立する。しかし、ソ連によって1940年に再び併合され、そしてソ連崩壊に伴って1990年に再度独立し、現在に至っている。

 では、ドナルド・キーンの父親は何人なのだろう。彼は「ロシア人」なのだろうか。今の地政学的にいえば「リトアニア人」である。その100年の間に国境線が揺れに揺れ動いた地域に住んでいた人間を「○○人」と規定できるのだろうか。そして、その「○○人」として規定できない人物を父親に持つドナルド・キーンの「民族性」も果たして規定することはできるのだろうか? 母親もニューヨーク生まれではあるが、ルーツを探れば、「アメリカ人」としてのルーツの外に出て行く可能性もある(大体「アメリカ人」という呼称こそ、その境界線は明確にはし得ない)。

 生まれたときはロシアだったものの2024年現在の地図ではリトアニアになっている地域で生まれた父親と、アメリカで生まれ育った母親から生まれ、アメリカで育ち、日本に移住して日本国籍を取得したドナルド・キーンは、果たして「何人」なのだろうか。ここまで話せばもうわかるだろうが、ドナルド・キーンを単一の「○○人」として規定するのは不可能だ。

 では、ドナルド・キーンは「特殊」なのだろうか。ドナルド・キーンの出自は特殊であって、そのほかの「日本人」はカギ括弧なしの日本人として規定することは可能なのだろうか。もちろん、不可能である。

 そもそも「日本」という国民国家が形成されたのは明治時代以降であり、「日本人」という意識も、明治なってメディアの発達・義務教育や徴兵制の実施、「標準語」の設定、そして度重なる戦争によって相対的に「日本人」としての自我を形成していった。「日本人」という民族意識は自然発生したものではなく、極めて人工的なものである。そして、人工的に「日本」が作られる前は、現在も続く近代的国歌「日本」は存在しなかった。

 「日本」という共同体が形成される前(いや、そんな共同体が現実に成立することもないから前も後もないのだが)には、この列島には様々な文化共同体が存在しており、決して「一つの民族」「単一民族」として括ることのできないほどの多様性があったし、今もある。そして他民族への侵略・入植を繰り返しながらその境界線を更新していった。

 つまり、ドナルド・キーンを引き合いに出さなくても、やはり純粋な「日本人」は存在しない。そもそも、存在しないのだ。本当だったらいたはず、ではなく、元から存在し得ない。そういう存在が、だから国民国家は想像の共同体だし、ナショナリズムは幻想なのだ。

発話における排除

 じゃあ、幻想だからナショナリズムは実効性を持たないのか、というと決してそうではない。幻想であるはずのナショナリズムは私たちが生活するこの現実世界に多大な影響を与えている。多くの場合、ナショナリズムによって国家は国民を統制している、という批判的文脈で語られることが多い。
 ただ、国民国家の枠組みはデメリットしか生まない、というわけではない。たとえば、国民国家を「作業仮設」として用いる場合。自国の政治制度をアップデートする際に、他国の制度と比較することでその改善点を見つける、という過程においては国民国家というある程度のまとまりの共同体を設定する方が分析しやすい場合がある。必要な統計、必要な分析のために、「狭義としての国民国家」を仮構することは必要なことだろう。

 逆に他者を統制する場合、国民国家という枠組みはどのように働くのか。それは「〇〇は△△人である/△△人ではない」という「発話」においてである。
 
どうして人は他者を「△△人だ」と規定するのだろうか。規定そのものというより、「規定すること」という言語的行為はどのような欲望によって駆り立てられているのだろう。そして、そのように「規定すること」はなぜ「差別」として退けられるべきなのだろうか。

 どうして人は他者を「△△人である/ではない」というように規定しようとするのか。実は、その規定に「その人が△△人であるか否か」は一切関係ない。つまり、「△△人である/ではない」と規定しようとする人にとって「△△人」という枠組みは一切関係ないのである。

 逆説的な言い方でわかりにくいかもしれないが、「△△人である/ではない」と規定しようとしている人は、「△△人である/ではない」と規定しようとしているのではなく、「自分によって味方であるか/敵であるか」という線引きをしているにすぎないのである。さらに言えば、「自分よりも強者であるか/弱者であるか」、「自分にとって利益をもたらすものか/害を与えるものか」、そして「自分にとって排除すべき存在か/否か」という線引きをナショナリティという実体のない「提喩」を使って行っているにすぎないのである。そこにある欲望は「他者を△△人として承認したい」という欲望ではなく、「誰が自分にとっての同胞で、誰が自分にとって排除すべき存在かを識別したい」という欲望に他ならない。

 まさに、この「発話」によって引き起こされたのが「福田村事件」である。

 ナショナリティにおける差別の最もおそろしい側面は、「あなたは日本人ではない」という排除の言説が、最終的には「同胞」であるはずの「日本人」に返ってくるということである。「発話」に先立って「朝鮮人は排除しなければならない」という差別の意識があり、しかしその「朝鮮人」というナショナリティは「排除する者」を示す「提喩」でしかなく、最終的には「日本人だったら正しい発音ができるはずだ」というこれもまた現実に実在しない尺度を使って、「日本人」を「朝鮮人」と規定し、虐殺する。
 結局、殺された人が「日本人」であるか「朝鮮人」であるかどうかはまったく関係がない。殺した者にとって、目の前の他者が「殺すべき人間かどうか」だけが問題だったのだ。そして、その線引きは「あなたは〇〇人か、そうではないか」という発話によって行われたのだ。
 だから、ナショナリティに基づいた差別は差別として退けられる。「〇〇人か否か」という線引きは不可能であり、その線引きはいずれ必ず「〇〇人」自身を「〇〇人ではない」と規定するという自家撞着に陥るからである。

 現実に実在するのは、「〇〇人」というナショナリティでもなく、「〇〇国」という国民国家でもなく、「あなたは〇〇人だ/〇〇人ではない」という発話だけである。その発話だけは、発話した人と、発話された人の間には実在のものとして共有される。しかし、そのシニフィアンには、シニフィエは決して含まれない。含まれていないにも関わらず、時には人を殺めるほどの、もしくは大量に虐殺するほどの力を持ち合わせることとなる。

 狭義の国民国家という枠組みは、もちろん必要かもしれない。しかし、それは本当に最小限度の使用に留めなければならない。日常の会話において「〇〇人」という発話がどれだけ必要なのか。否応なくグローバル社会に巻き込まれていく最中で、私たちは、私たちの発話の一つ一つを注意深く点検しなければならない。
 私たちの発話が、誰かの命を奪うことに繋がらないか。シニフィエなきシニフィアンが、凶器として使われることがないか、ということを確かめなければならない。

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