「かぞくのくに」を観る。

「抗わない、抗えない映画」だと思った。思った、けど。

  ソンホ(井浦新)は、70年代に朝鮮総連の父の勧めで北朝鮮への「帰国事業」に参加した。そのときソンホ16歳という若さだった。家族、級友と離れて「理想郷」と謳われた北朝鮮に移住したが、その地は不毛の地であった。
  ソンホは平壌に住み、妻子も持つ。脳に腫瘍が見つかるものの、北朝鮮の医療技術では治療することができず、その検査・治療のために日本に3ヶ月だけ一時帰国する。ここから映画がスタートする。
  ソンホは妹のリエ(安藤サクラ)などの家族と再会し、北朝鮮に向かう前、お互いを想いあっていたスニ(京野ことみ)などの級友と再会し、25年の歳月を埋める。
  同時に、ソンホはヤン(ヤン・イクチュン)によって監視されながら生活をすることになり、 日本での諜報活動をするようにソンホに持ちかける。おそらく、この一時帰国の目的も大義は治療だが、本当はスパイ行為にあったのかもしれない。
  脳の腫瘍が悪性である可能性が高いと医師から診断を受けるものの、3ヶ月では手術と経過観察ができないと苦言を呈されてしまう…。
  と、意味ありげにあらすじを終わらせたけど、内容のほとんどが上記に収まっている。

  まず立ち現れるのは「抗えない、抗わない」という風景だ。
  ソンホの実家には金日成と金正日の御真影が飾られている。ヤンという身体を持つものに実際に監視されるだけではなく、国家権力によって規律を内面化させられている。3ヶ月という帰国期間が設定されていたものの、一本の電話によって突如打ち切られ、手術も治療も受けずに、ソンホは平壌に帰ることになる。
  多くのフィクションでは、「抗う姿」が描かれる。「プライベート・ライアン」だったら、ナチスに抗うアメリカ兵。「葛城家族」だったら葛城家や日本の法制度に抗う順子、「ヒトラーの忘れもの」だったら、ナチスや、ポーランド軍に抗おうとする軍曹。これらのように何かに抗うということが主題になること多い。しかし、ソンホや家族は権力に対して抗わない。粛々と決定を受け入れ、そして平壌へ戻っていく。国家がしたことはたった一本ヤンに「明日全員帰還させろ」と電話を入れただけだ。その身体すらも描かれない。「描かない」ということを通してその巨大さを描いている。
  しかし、最後のシーンでその印象を全て覆す。妹のリエが、ソンホが気に入っていたスーツケースを手にして横断歩道を歩くというシーンでこの映画は幕を閉じる。確かなことはわからないが、あのスーツケースは「平壌に行き、ソンホを取り返す」という意志の表れだろう。
この映画は、「抗わない映画」ではなく、「抗い始める映画」だったのだ。

  もう一つは「きずなとほだし」という風景だ。
  「絆」という言葉は平安文化の中では「ほだし」と読まれ、「障害となるもの」という位置付けがなされていた。出家したいけど、恋心を抱いている人のことが忘れられず、なかなか出家できない…という場面で「ほだし」という言葉が使われる。
  強い心理的連帯感は時にはお互いを束縛する障害になる。それは平安も現代も同じだ。しかし、現代では「きずな」というプラスの面だけが「絆」の規格となり、称揚される。「絆」が持つ負の側面に、気がつきつつも、抑圧している。しかし、抑圧しているだけで、なくなっているわけではない。
  この映画では、その「きずな」と「ほだし」のどちらの側面も描かれている。ソンホの家族は強い「きずな」によって結ばれ、25年という長い年月の間もずっとお互いを想いあっていた。しかし、ソンホが強制的に北朝鮮に帰るときには「きずな」が「ほだし」にソンホの姿を変える。「きずな」が強ければ強いほど、別れの悲しみは大きくなる。正の効果が大きければ大きいほど、副作用も大きい。
  虐待も同じ構造で起こることが多い。虐待は「きずなが弱い」から起きるのではない。「きずなが強すぎる」がゆえに起こることもある。
  フィクション産業の中では「きずな」にフォーカスしたものが多い。生田斗真がトランスジェンダーの女性を演じた「彼らが本気で編むときは、」も、最後少女は「ほだし」にもなりうる「母親とのきずな」を選ぶ。「親子は固いきずなで結ばれている」という家族観は未だに力を持っている。
  確かに、それも正しい側面だ。しかし、同時に「きずなとほだしは表裏一体である」ということは胸に刻まなければならない。そんなことをこの映画を見ながら考えていた。

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